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心清水(こころしみず)八幡神社は、天喜3年(1055)、源頼義、義家が奥州征伐の時に、戦勝を祈願し、山城国の石清水八幡宮を勧請したことが始まりと伝える。
福島県会津坂下町塔寺字松原
震災前取材
奥州征伐がなった後、義家は社殿を建て、神事や祭礼を定め、河沼郡の総鎮守として祀った。義家が社殿を建立したときに、この地の神泉で心身を清めたときに「心清々し」と発したことにより「心清水八幡」と称せられるようになった。以来、領主や人々の崇敬を集めた。
寛文7年(1667)、この地の領主となった会津松平藩初代藩主保科正之は、神社制度を改め、社僧を廃し、仏像や仏具を用いず、古来からの唯一神道に復し、会津五大社の一とし、この地方三万石の鎮護として祀った。また社殿の修復は会津藩が行うこととし、三十石を社領とした。
天保11年(1840)、火事により社殿が焼失したため、文久年間(1863~65年)に松平容保が現在の地に再建し、これは会津藩最後の建造物となった。
現在もこの地を中心に広く信仰を集めており、「心清水」は「産子(おぼこ)清水」とも呼ばれ、この霊水で粥をつくり食せば、産婦の母乳に霊験があると伝えられる。
現在、神社には『塔寺八幡宮長帳』と称される長大な日誌と鰐口が保存されており、それぞれ国の重要文化財に指定されている。特に長帳は、神主らが大般若経などの御経の転読やその配役などの神社の行事を記した日記で、全長約120mにも及ぶ長大なものである。現存するものでも貞和6年(1350年)より寛永12年(1635年)までの286年間分にも及んでいる。長帳の裏書には、会津を中心とした政治や社会の動きや災害などの記事が記載されており、会津中世史を解明するにあたっては第一級の史料である。