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福島県会津坂下町塔寺字松原

震災前取材

  • 山門
会津仏教の一つの象徴にもなっているこの石塔山恵隆寺の観音堂は、人々からは親しみを込めて立ち木観音と呼ばれている。風神、雷神や二十八部衆を従えた巨大な千手観音は鎌倉時代に造られたもので、 国の重要文化財に指定されている。

恵隆寺の創建は欽明天皇元年(540)に、中国の高僧青岩が高寺山を訪れ開山したのが始まりとされる。その後、大同3年(808)に霊夢によってこの恵隆寺を訪れた僧(諸説あり)が、巨大な大木を立ち木のままに枝葉を払い落とし、一本彫りで「十一面千手観音菩薩像」を彫り込んだとされ、「立木観音」と呼ばれている。像の高さは約8.5mと日本最大級で、足元には現在でも根株を見ることが出来る。

又、堂内には「だきつきの柱」があり、柱に抱き着き願い事をすると成就することから「だきつき観音」や「ころり観音」などとも呼ばれている。また、本尊の左右に安置されている脇侍の二十八部衆、風神、雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさですべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており、30体の眷属が揃っているのは京都三十三間堂とこの立木観音堂だけとも言われている。

かつての恵隆寺の周囲には、36坊の支院があり、数千人の僧侶がいたと云い巨大な勢力を有しており、同じく大きな勢力を持った慧日寺と対立した。高寺と慧日寺との争いに、会津進出をはかり越後の城氏が介入し、平安の中期頃、城重範は「会津八館」を設け、会津進出の足がかりとした。城氏と結んだ高寺は慧日寺に挑んだが、慧日寺の僧兵はきわめて強力で、その上城氏は高寺を見切り慧日寺と和を結んだために、慧日寺に攻められた高寺は敗れ、堂塔ことごとく灰燼に帰したと云う。

その後、建久元年(1190)、現在地に伽藍が再建され、その時建てられたのが現在の観音堂の原形とされ、慶長16年(1611)の会津地震での大打撃や江戸時代中期、大正5年(1916)の修復を経て現在に至る。