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福島県会津坂下町勝大字沢口

震災前取材

  • 会津藩家族自刃地
この勝方寺の地で、戊辰戦争の際に、会津藩士の2家族が自刃した。

慶応4年(1868)9月、会津藩の虚を突き母成峠を突破した西軍は猪苗代の十六橋も突破し、会津若松城下になだれ込んだ。城からは全員登城の命が下り、会津藩士やその家族らは続々城に入ったが、西軍の侵攻は急で、城内に入ることができなかった者も多かった。

それらの藩士や町人の家族が城下から逃れ、塩川、門田、尾岐、旭、坂下等へ逃げる人々の群れは長い列をつくった。一方、西郷頼母一族を始め、屋敷に火を放ち自刃した藩士の家族もまた多かった。

砲兵一番隊組頭の南摩弥三右衛門の母勝子、妻ふさ子ら家族6人は、ようやくの思いでこの勝方寺のあたりにやって来た。その時、やはり避難していた市中朱雀二番隊頭の町野源之助の母きと子一行と思いがけずこの地で出合った。南摩勝子と町野きと子とは姉妹であった。

この時、会津勢は、若松城の防御のため、周辺の武家屋敷に火をかけ、城下は轟々たる火の海だった。これを見てきた町野の下士が、「城も落ち敵が迫っている」と告げた。南摩勝子と町野きと子らは今はこれまでと、敵の辱めを受けるより自決した方がよいと考えた。

しかし、弥三右衛門が傷を負いながらも生きていることを聞き、南摩勝子は嫁に、「長男萬之助と次男を連れて戻り、義父弥三右衛門の指示を受けよ」と命じた。嫁のふさ子は、一緒に自刃することを願ったが勝子は許さず、嫁のふさ子は泣く泣く半月前に生んだ赤子を抱いてこの地を後にした。

残った南摩、町野両家の8名は、寺を出て西の裏山に登り、南摩勝子は自らの手で孫を刺し、血に染まった刃で我が胸を突いた。町野きと子も孫を刺し、その家族ともども自刃した。南摩の下士は、長男萬之助らを弥三右衛門の元に送り届けるとこの地に戻り、町野の下士とともに、涙ながらに寺の僧の協力を得て遺骸を墓所に葬ったと云う。