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福島県会津美里町米田字堂ノ後…弘安寺

震災前取材

  • 仁王門
中田観音堂は、会津三十三観音の30番礼所で、長わずらいをしないで往生できるよう祈願する会津コロリ三観音の1つとして、今も人々の信仰を集めている。

中世鎌倉期、この地は地頭の富塚伊賀守盛勝が治めていた。この地の長者江川常俊の娘の千歳姫が、法用寺の虎ノ尾桜が満開の季節に盛勝と出逢い、恋慕の情を持ったが、その恋はかなうことなく、病に伏せ亡くなったと云う。江川常俊は、娘を不憫に思い、文永11年(1274)、十一面観世音菩薩立像を鋳造し、この中田の里に納めた。次いで弘安2年(1279)、富塚盛勝は伽藍を造営し、観音像を観音堂におさめたと云う。

野口英世の母シカも、この十一面観音立像を信仰し、毎月17日、はるばる猪苗代から歩き一晩観音堂におこもりをして帰っていく月詣りをして英世の無事を祈願したと云う。大正4年(1915)には、郷里に帰った英世は母シカとともにお礼まいりをしたと云う。

観音堂内には「抱きつき柱」があり、信心篤い者が抱きつくと、何ごとも念願が叶えられるといわれている。また、この観音堂のお守りは「土守」といい、身につけていると他所の土にならない、つまりどこに行っても無事に我家に帰れるとされる。