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福島県会津美里町杉屋字上屋敷

震災前取材

  • 船岡館跡
船岡館は、赤沢川左岸の扇状地先端に位置する平城で、30m×40mの方形館と、これを囲む東西に長い外郭からなっている。主郭は、高さ2~3mの土塁が周り、さらに幅3~4mの水堀で囲まれ、東、南側に虎口が配されている。

外郭部は、北側に上馬場、下馬場を併設し、南側には家臣の屋敷地があったと思われ、周囲は扇状地形の段丘崖を利用した水堀で囲まれていたとされる。現在は、圃場整備事業で遺構はほとんどなく、主郭の土塁の一部に神明社が建立されている。

築城時期、築城主は不明であるが、室町期に松本氏によって築城されたと考えられる。葦名氏時代、城主は、富田、佐瀬、平田氏とともに仕えた重臣松本氏が居館としていた。松本氏は信州松本の出身で、清和源氏伊那氏を出自とし早くから会津に土着した。亨徳2年(1453)には葦名氏へ臣従しており、同じく会津に入部した葦名氏に従属し葦名氏の四天王の筆頭とされ、葦名氏が勢力を拡大するにつれ松本氏も勢力を拡大し、周辺に庶流を分派させ一大勢力に成長した。

永正2年(1505)、松本氏は、同じ葦名氏家臣の佐瀬、富田氏と対立し、このことが原因で、葦名盛高、盛滋父子が対立する「会津内乱」となった。葦名盛滋、松本氏は敗れたが後に許され会津に復帰した。大永元年(1521)には猪苗代氏が葦名氏に叛旗を翻すと、松本氏はこれに味方して黒川城を攻撃もしている。

葦名盛氏の時代の天正3年(1575)、当時の松本氏当主の図書介氏輔が、三春城の田村清顕軍との戦闘中に戦死し、松本氏の家督は幼少の嫡男太郎行輔に安堵された。天正8年(1580)に、葦名盛氏が没すると、その跡は二階堂氏からの養子の盛隆が継いだ。盛氏は、松本行輔が15歳になったならば、「四天の宿老の列に加えよ」と遺言したと云うが、翌年、葦名盛隆は松本氏の領地を召し上げ、行輔が15歳になっても盛氏の遺言が実行されることはなかった。このため太郎行輔は、天正12年(1584)、笈川村の栗村盛胤の支援を受けて黒川城を武力占拠した。しかし体制を整えた葦名軍に攻められ行輔は討死、叛乱軍は鎮圧された。これにより松本氏は断絶した。