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福島県矢祭町東舘字舘

  • 城山
東館城の築城時期、築城者については定かではないが、南北朝期に白河結城氏によって築かれたとされる。古文書によれば、天文10年(1541)、岩城常隆の仲介で、佐竹氏と白河結城氏が和睦する条件として、白河結城氏が東館城を破却するとあり、この時期には白河結城氏家臣の斑目氏が城代で、白河結城氏が、この矢祭地方支配の拠点の城としていたようだ。

これ以降は、白河結城氏の衰退と同時に、佐竹氏の南奥進出の拠点となる。佐竹氏はこの城を北進の拠点として整備し、一族で重臣の東義久が城代を務めたとされる。佐竹氏はこの東館城を根拠に羽黒山、寺山と拠点を北に移しながら、ついには赤館、白河まで手に入れることになる。

戦国後期には、南奥では伊達政宗に北進を阻まれ、天正17年(1589)には、伊達氏に属するようになった石川昭光らの軍勢が攻め寄せてきたが、東義久一門の原兵部少輔が籠城し抵抗したという。その後、奥州仕置きにより伊達氏は大崎の岩出山に去り、関ヶ原の戦いまでは佐竹氏が支配していた。しかし、関ヶ原の戦いの際に、西軍寄りの行動をとった為、本領は没収され、秋田に減移封され、この時期に廃城になったと思われる。

現在、城跡は館山ふるさとランドとなっており、主郭部は公園化され城跡の様相は失われているが、地形は大きな変造を受けていないように見える。主郭部は東から久慈川の谷部に張出した尾根の末端にあり、ふるさとランドのある直径300m位の領域である。

この主郭の周りには、比較的大きな郭がいくつかあり、南側、西側にも郭群が配されていたようだ。主郭から東に長く伸びる尾根筋のピークにも出城的に郭が置かれていたようだ。