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福島県浅川町浅川字山根

震災前取材

  • 城山
 

別名:青葉城

浅川城は、浅川の市街地東側にそびえる城山山頂に築かれた山城。城山山頂部に主郭を置き、帯曲輪と二の郭、三の郭をおいた輪郭式城館である。主郭周囲の切岸と曲輪は良く残っているが、公園化のためか土塁などは見あたらず、地形は変わっているのかもしれない。

浅川城は、浅利知義がこの地に築いたと伝えられる。浅利氏は、文治5年(1189)の奥州征伐に功をあげ、父の浅利義成が秋田比内を与えられ、知義が浅川の地を与えられ、浅川氏を称し代々の居城となった。

浅川氏は隣接する石川氏と同族化を進め、小勢力ながら比較的平穏にこの地を支配していたと思われる。しかしこの地域にも戦国の動乱は影を落とし始め、葦名氏、田村氏と対立していた石川氏は佐竹氏を後ろ盾にしていたが、永禄11年(1598)伊達氏より娘婿を迎え伊達氏とも手を組んだ。

元亀3年(1572)、石川晴光は佐竹義重の調停に従い三芦城は芦名氏の支配する所となった。これを不服としてか、翌元亀4年(1573)、石川昭光は佐竹義重に反旗を翻したが、浅川大和守義純の勧めにより、三芦への復帰と領土の回復を条件に、再び佐竹氏に服属した。

天正2年(1574)には、白河勢が浅川に攻め込み、田村勢が石川領の白石城を攻めこれを攻略した。翌天正3年(1575)には、芦名、田村、二階堂、白河の連合軍1万余が、佐竹、石川氏の軍勢と石川郡金波川北方で戦い、連合軍は川辺以北の地を攻め取ったという。このころ、浅川義純は佐竹氏に反逆し、一時浅川城を追われ、浅川城は石川昭光に預けられた。

天正6年(1578)には白河勢が浅川城を攻撃し、また田村勢も浅川城を攻撃している。この様な複雑な情勢の中で、田村氏は伊達氏との結びつきを強め、南奥羽は伊達を中心とした勢力、芦名・佐竹を中心とする連合勢力との対立に 集約していった。

天正9~10年(1581~82)の間には、石川昭光は三芦城に復帰し領土を回復し、浅川義純も浅川城に復帰したと考えられている。しかし、天正13年(1585)には伊達政宗による小手森城の撫で斬りが行われ、さらに人取橋の戦いでは伊達・田村勢が勝利した。その結果、南奥羽の諸将の多くは伊達に服属し、天正17年(1589)、石川大和守昭光も伊達政宗に服属した。

天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により浅川城は没収され、会津蒲生氏郷領となる。 慶安2年(1649)白河藩主本多忠義領のとき、その子本多忠以が寛文2年(1662)浅川藩一万石を起こしたが、その後再び白河藩領となった。寛保2年(1742)には、越後高田城主榊原氏の所領となり、68年間浅川に陣屋が置かれ、石川、白河、岩瀬、田村四郡中の284ヵ村(石高八万三千石余)を支配した。