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福島県白河市円明寺

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松平直矩(なおのり)は、徳川家康の次男の結城秀康の孫に当たる越前松平家二代目である。

姫路藩主松平直基の 長男として生まれたが、父の死去により5歳で家督を相続した。しかし、幼少の直矩には、西国の要地である姫路は不適当と判断され、越後村上藩に国替となった。

成人後姫路藩に復帰したが、親戚の越後高田藩の御家騒動に際し、出雲広瀬藩主松平近栄と共に一族を代表して騒動の調停を行った。しかし紛争は収まらず両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門のうえ豊後日田藩に国替を命じられた。

4年後、3万石加増のうえ出羽山形藩、さらに6年後には5万石加増のうえ陸奥白河藩へ移封された。生涯で幾度も国替を重ね、「引越し大名」なるあだ名をつけられ、また家中は多大な借財を負うことになった。元禄8年(1695)享年54歳で没した。

その跡は、次男の松平基知(もとちか)が継いだ。江戸本所での浚渫や、江戸城吹上御殿の手伝普請により藩財政は一層逼迫した。藩財政の改善に着手したが、年貢の厳しい取立てにより享保4年(1719)には全藩規模の百姓一揆が発生し挫折した。享保14年(1729)、江戸藩邸で死去。享年51際だった。