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福島県白河市円明寺

  • 参道
 

丹羽長重は、元亀2年(1571)4月、織田信長の重臣である丹羽長秀の長男として生まれた。本能寺の変後は、豊臣秀吉に従い、天正11年(1583)、父長秀と共に賤ヶ岳の戦いに出陣、翌天正12年(1584)の小牧長久手の戦いにおいても病床の父に代わり出陣した。

しかし、織田家中では、秀吉よりも席次が上だったこともあり、大禄であったこともあり秀吉からは疎まれたようだ。天正13年(1585)、父の長秀が没すると、越前、若狭、加賀二郡の123万石を相続したが、同年、越中の佐々成政征伐に従軍した際、丹羽家中に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、越前、加賀を召し上げられ、若狭一国の15万石に大減封され、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上義明らも召し上げられた。

さらに天正15年(1587)の九州攻めの際にも、些細なことを理由に若狭を取り上げられ、わずかに加賀松任4万石になってしまった。その後、小田原攻めの 功により、加賀小松12万石に加増され、このときに従三位、参議に叙位任官され、小松宰相と称された。

慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、徳川家康からは豊臣派と目された前田利長監視の密命を受けた。しかしそれでも慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍の前田利長と戦い改易された。

慶長8年(1603)、常陸古渡藩1万石を与えられて大名として復帰し、慶長19年(1614)からの大坂の陣では徳川方として参戦して武功を挙げ、元和5年(1619)、常陸江戸崎藩2万石に加増移封された。

その後、元和8年(1622)には陸奥棚倉藩5万石に加増、寛永4年(1627)には10万700石で陸奥白河藩に加増移封され、白河藩初代藩主となり、白河城を築いた。

丹羽氏はかつては123万石の大大名であり、また築城の名手でもあった。このため、丹羽氏は加増移封され棚倉城築城を命じられ、完成すると白河に加増移封、白河城の築城を命じられ、完成すると今度は二本松に加増移封、二本松城の築城を命じられている。これは、外様大名である伊達政宗への備えと、また丹羽氏の潜在的な財力を奪うことにあったと考えられる。

このような丹羽氏の激動の時代を生き抜いた丹羽長重は、寛永14年(1637)閏3月、白河で死去した。享年67歳、跡は丹羽光重が継ぎ、その後二本松に転封となり、二本松城を築き、ようやく定着した。

戊辰戦争時、この白河は西軍との白河口の戦いで、各所で戦闘が行われた。この戦いには多くの二本松藩兵も、奥羽越列藩同盟側として戦い、23名の犠牲者を出した。この廟の入り口を守るように、この戦死者の供養塔が建てられている。