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福島県大玉村玉井字舘

2011/04/05取材

 

玉ノ井城は、天文元年(1532)、会津葦名氏に仕えた大河内日向守光盛が築き、玉井氏を名乗りここを居館とした。

城は玉井の集落のある台地の南側に土塁と水堀を配し、北側は台地を二重の水堀で区画していた平城である。内堀西側には馬場を設け、東側には郭が配され、北側は家臣の屋敷があったと考えられる。

現在、城域の多くは住宅地と畑地になっており、現在は遺構が大分失われているが、それでも丁寧に眺めると、土塁跡や水堀跡の様子が伺われる。

この地は、安積地方に隣接し、葦名氏の仙道地方への出口にあたる。安積地方は、伊達、石川、岩城、白川、二階堂、田村各氏の草刈場になり、この地は葦名氏にとって、南奥の一大勢力としての地位を確立するためには重要な地であったと思われる。

天文16年(1547)、田村隆顕は畠山義氏、石橋尚義とともに安積郡に侵攻し10ヶ城を落とし、玉井城もこのとき落城した。しかしその後、岩城勢が田村郡小野地方に侵攻、葦名盛氏もこれと連携し安積郡に兵を出し、玉井氏も早い時期にこの地に復帰したと考えられる。

天正13年(1586)、伊達政宗の父輝宗が、二本松城主の畠山義継により拉致、殺害される「粟之巣の変事」が起きると、仙道地方は一気に流動化し、天正16年(1588)2月、葦名義広は伊達方の郡山城や本宮城を攻め立てた。

伊達政宗は、本宮城と玉井城の背にそびえる大名倉山とを結ぶ線を防衛線と考えていたようで、伊達氏と葦名氏は、各所で戦ったが、このような中で、同年3月、玉井城は伊達勢の攻撃を受け、300人余りが討ち取られ落城し、玉井氏は滅亡した。

その後の「人取り橋合戦」では、政宗は玉井城へ白石若狭守を遣わし、白石勢500は、この玉井城から最前線に向かい戦った。