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福島県大玉村玉井字南町

2011/04/05取材

 

 

相応寺の創建は古く、平安時代のはじめの大同2年(807)、徳一大師が開いたと伝えられる。

徳一大師は、霊夢により安達太良山へ登り、その岩上に薬師如来の尊像を見つけた。この像は、空海が仏法を求めて唐に渡った後に刻し、「有縁の地に安座し給え」と念じ虚空に投げたものであったという。

大師はしばらくこの地で修行していると、あるとき、猟師が猪を山中に追い詰め、手負の猪が倒れて谷の温泉のなかに落ちた。しかししばらくして猪は息を吹き返し、傷も癒え、猟師に襲い掛かり立ち去った。

不思議に思った徳一大師が、よく見ると、その温泉には、この薬師如来像の肌を通して湧き出た湯が流れ込んでいた。大師は、瀕死の猟師を温泉に入れたところ、この猟師の傷もたちまちのうちに治った。

大師はこの像を眉岳に運び、堂宇を建てて安置し、安達太良山相応寺と号したと云う。

眉岳にあること650年、その後相応寺は、度重なる野火で焼け荒廃したが、宝暦4年(1452)、玉井の亀山に再建され、修験道の拠点となった。その100年あまりの後の永禄3年(1560)、現在地に移された。

本堂の左に建つ薬師堂内の薬師如来は、亀山の元相応寺から移った岳山湯前薬師と伝えられ、左右には脇仏の日光、月光菩薩が立ち、両側に十二神將が配されている。

また境内には、この玉井の地に縁の深い、源義家の愛妾の織井御前を祀った堂もある。