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福島県小野町夏井字町屋

震災前取材

 

麻呂(これはりあざまろ)が、蝦夷を率いて反乱を起こした。蝦夷軍は、多賀城を攻め、朝廷軍は敗れ、多賀城は焼き払われた。当時、大和朝廷と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた。

朝廷は、ただちに藤原継縄(ふじわらつぐただ)を征東大使として征討軍を出動させた。藤原継縄は此の地に陣をとり、社壇を築き杉を植え、勝利の祈願をこめ奥地に進発した。蝦夷軍は手ごわく戦闘は諸所に拡大したが、ようやく国府に入り、準備を整え、翌天 応元年(781)、数度の合戦で伊沼の柵を破り、砦麻呂を誅して凱旋し、其の後この社を造営したと伝える。

この境内参道にある「爺杉」「婆杉」は、その当時植えられたものと伝えられ、国の天然記念物に指定されている。