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福島県小野町谷津作字平館

震災前取材

 

この地は、小野篁(たかむら)がこの地に下向し居したといわれる館跡である。

平安初期、嵯峨帝の弘仁6年(815)、小野岑守(みねもり)は、陸奥守として長男篁とともにこの地に下向した。小野六郷を定め、この地を開発し、中央の文化を導入し、産業を興し学問を広めた。

館ははじめ、矢大臣山の山麓にあったが、後に地の利と生活の便から、この谷津の夏井川畔の、小高い丘に館を造り居を移した。このため、山麓の館に対して、この地を「平館(ひらやかた)」と呼ぶようになり、現在も地名になっている。また里人たちは、この地を「谷津の都」と呼んでいたが、その後、都とは帝のいる地で恐れ多いということで、「下都」と呼ぶようになり、今日に至っている。

小野篁はこの地の娘の愛子(めずらこ)との間に一女をもうけ、それが小野小町であると伝えられる。