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福島県伊達市下志和田…福源寺

震災前取材

寛延2年(1749)、福島信達地方は大凶作となった。領内の農民達は、再三にわたり年貢の減免を当時の桑折代官所に願い出たが、非情にも逆に増税を命じられた。

同年9月、増税の不当を述べ「宮代村山王社に集合すべきものなり、両郡の百姓のため一大事の密議あり」という内容の、誰が発したかわからない廻状が信達68ヶ村に廻った。この廻状には、もし留め置いた村があれば、村は焼き払い、一命を申し受けるというとも書かれており、またたくまに68ヶ村に伝わった。後にこの廻状は、伝達の早いことから、「天狗廻状」と呼ばれた。

12月3日、朝から吹き荒れた風は夜には静まり、小糠雪の中を、三々五々各村の百余人の百姓代が宮代村の山王社に集結し、年貢減免の強訴を取り決めた。廻状は焼却し、その灰汁を結束の証として回し飲みしたと云う。

12月11日夜、1万6千800余人の農民達が桑折代官所を取り囲み強訴を行い、要求を受け入れさせた。

しかし、桑折代官は、一揆の首謀者を探すため、農民達を次々と捕らえ拷問にかけた。見かねた長倉村(現在の伊達町)の斉藤彦内は、全ての責任は自分にあると自首したため、はげしい拷問を受け続けた。この彦内の苦しみを救おうと、さらに伊達崎村(現在の桑折町)の蓬田半左衛門と鎌田村(現在の福島市)の猪狩源七が自首し、これも過酷な拷問を受けた。

三人はその苦しみに耐え、最後まで他の農民の名を口にすることなく、身代わりとなり、最後は産ヶ沢の刑場で斬首されさらし首にされた。このとき彦内は42歳、半左衛門53歳、源七33歳だったと云う。