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福島県会津若松市東山町石山字天寧

 

天寧寺は、文安4年(1447)、葦名盛信がこの地に開いた葦名氏の菩提寺である。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺33カ寺、僧堂12、雲水1,000名を擁したとされる。

天正14年(1586)、葦名亀王丸の死によって葦名氏の血統は途絶え、養子を迎えるにあたり、家中は伊達派と佐竹派の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男の義広が跡を継いだ。義広は、当初白河結城氏を継ぎ結城義広あるいは白河義広と称していたが、天正15年(1587)、葦名盛隆の娘と結婚し、正式に葦名家を継ぎ葦名義広を名乗った。

しかし、天正17年(1589)の摺上原の戦いに敗北し、伊達政宗により会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時焼失した。会津を追われた義広は、実兄の佐竹義宣を頼り常陸に逃れ、のちに豊臣秀吉から常陸江戸崎4万5千石を与えられた。

しかし関ヶ原の戦いにおいて、佐竹氏とともに西軍よりの行動をとり、佐竹氏とともに秋田に移り、佐竹氏の一族として角館を領した。このため葦名氏は、この地の天寧寺を本寺とし、角館にも天寧寺を開いたが、跡継ぎが無く結局断絶した。