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福島県会津若松市神指町黒川字街道西

 

この地の西側を旧越後街道が通っており、慶応4年(1868)、新政府軍の城下への侵攻を防ぐべく、中野竹子ら会津勢がこの地で迎え撃った。

8月23日、新政府軍が会津坂下に進軍してきた際に、松平容保の義姉である照姫が会津坂下に立ち退いていることを耳にした中野竹子らは、照姫を護衛するために婦女隊を組織した。

会津坂下に向かった婦女隊は、照姫を見つけることが出来ず、翌24日に会津坂下にて行き合わせた萱野権兵衛に従軍を申し出たが女子であるために拒否され、しかし重ねての彼女らの嘆願により、翌日衝鋒隊への同行が許可された。

竹子らは黒髪を断ち、薙刀をかかえ、衝鋒隊に加わり、城下にせまる長州、大垣藩の兵士らと遭遇し激しい戦いが展開された。竹子は、辞世の句の

武士の 猛き心に くらぶれば
数には入らぬ 我が身なれども

と詠んだ短冊を薙刀に結びつけ奮戦したが、敵の銃撃に会い額に銃弾を受けて討死、その首級は、政府軍に奪われることをよしとしない妹中野優子により介錯された。時に20歳であった。