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福島県北塩原村桧原

2014/10/31取材

 

戸山城は、桧原湖の北西端、南側に張り出した比高約210mに築かれた山城。城域は、東西約100m、南北約300mほどで、主郭の規模は東西約15m、南北約30mほどである。大手筋は南東麓からのルートと思われ、中腹の尾根先端には、出丸と思われる平場が設けられ、土橋で主郭方向に繋がっている。山頂の本郭を中心に、東、西側は急峻な断崖で、南西側斜面に横堀と土塁が2段ずつ築かれ、南東尾根にはいくつかの段郭があり、その先は中央に土橋を残し両側を堀切で遮断した形の小堀切を設けている。北の尾根筋には全部で3本の堀切があり、各堀切間は削平され、小規模な曲輪となっている。一番大きな堀切は本郭背後のもの。山頂の本郭を中心に、普請はしっかり成されているものの、全体に小ぶりな印象で、有時の時にだけ使われる詰城だったと考えられる。

城主の穴沢氏は、会津葦名氏の被官で、桧原館を拠点に、葦名領米沢口を守備していたと伝えられる。永禄7年(1564)、米沢城主伊達晴宗は桧原峠に出兵した際、これを事前に察知した穴沢氏三代の俊恒は、桧原峠で伊達勢を迎撃し撃退した。俊恒は、伊達氏の侵攻に備え、桧原館の背後に、詰の城として戸山城を築いたとされる。

翌年の永禄8年(1565)7月、ふたたび伊達勢が桧原に侵攻、このとき伊達勢800は、防備の脆弱な北側尾根から堀切を越えて奇襲攻撃を行い、穴沢勢はからくもこれを撃退した。このため穴沢俊恒は、桧原の南方堂場山に、新たに岩山城を築き移り、戸山城は破却された。