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福島県郡山市大町一丁目

震災前取材

 

郡山宿は江戸から四十二番目の宿。

郡山は、中世には、葦名氏、田村氏、大内氏、二階堂氏、岩城氏、石川氏等豪族の争奪場となった。これらの争いに、伊達政宗がほぼ決着をつけたが、豊臣秀吉の奥州仕置の結果、会津蒲生氏郷領となった。しかしその後、会津上杉景勝領、会津蒲生秀行領、会津加藤嘉明領とその支配者はめまぐるしく変わった。

寛永20年(1643)丹羽光連が白河から二本松に入ると、その後は明治期まで二本松丹羽氏10万石の藩領となった。郡山には代官が置かれ、奥州街道の宿駅として藩のドル箱的存在となった。郡山は、会津および岩城地方と街道が通じ、周辺の物産の集散地として重要な位置をしめており、人口も次第に増加し、それに ともない、木戸の位置もその都度かわり、最終的に宿場の長さは1100mほどにもなったという。

しかし、現在のように福島県随一の大都市になったのは、明治時代に猪苗代湖から水を引いて作られた安積疎水の開通により、周辺地域の開発が進んだこと、磐越線、水郡線等の福島県各地を結ぶ鉄道と東北本線との分岐点であったことによる。

松尾芭蕉は、郡山宿に夕方に到着し一泊している。当時の郡山宿は宿駅の整備が始まったばかりで、旅籠などもあまりよくなかったようだ。曾良旅日記には「宿ムサカリシ」と記されている。