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福島県郡山市田村町谷田川字樋ノ口

震災前取材

 

別名:雲水嶺城、星ヶ城、長平城

須賀川市塩田原と郡山市田村町にまたがる宇津峰山は、阿武隈山地から西に派生する標高876mの独立峰。山全体が、かつて南朝軍が篭城した地で、その遺構が随所に残されている。北朝方の攻撃で前後二回にわたり落城しており、奥州の南北朝期を代表する山城である。

山麓には、柴塚城、御代田城、守山城、谷田川城、矢柄城、蛇頭館などの支城があり、南北朝期の戦いにおいては、情報伝達や補給の面でもスムーズに出来たと思われる。

急峻な地形そのものを利用しながらも、全山各所に大小の郭跡と思える平場や切岸状の地形が見られ、東の尾根続きには空堀跡も見られる。山頂には土塁に囲まれた約20m四方ほどの「千人溜り」と呼ばれる郭跡と、本郭の平場がある。 「千人溜り」には、後村上天皇。後亀山天皇、守永親王の三つの石祠があり、本郭平場には、この地で戦った南朝方の武将を顕彰したのだろう「東北勤皇忠烈之址」の石碑が立つ。

南北朝期に、現在の郡山市田村町の守山城を本拠とする田村宗季は、南朝から延元4年(1339)に庄司に任命された。守山城の東南6kmにある宇津峰は、戦略上の田村氏の拠点であった。北畠親房の次男の北畠顕信は南奥羽の南朝方勢力を糾合し、多賀国府を奪回するため白河庄に入り、田村、伊達、結城、小山氏らの軍勢で国府の挟撃をはかり、顕信自身は宇津峰を経て海路石巻日和山城に入った。

しかし南朝方はこの時期すでに劣勢で、貞和2年(1346)、北奥羽の南朝方の中心となっていた南部政長は北朝方に降り、南奥羽の結城氏も北朝方に降ると、北朝方は総力を上げて南奥羽の南朝方を駆逐するべく動き始めた。結城、石川、信夫佐藤、岡本、岩城佐竹、国魂、伊賀、相馬、会津真壁、和賀氏らが参陣し、南朝の拠点である宇津峰、霊山、藤田、河俣、岩色、鉾椎の諸城を攻撃した。貞和3年(1347)7月13日に岩色城、22日に藤田城、25日に河俣城が陥落し、宇津峰、霊山も9月の初めには落城し、北朝方の勝利に終わった。

しかし観応元年(1350)に観応の擾乱が起き、北朝内部は分裂し、奥州では、奥州管領で二本松の畠山国氏と多賀国府の吉良貞家も分裂した。南朝方はこれに乗じ宇津峰城を奪回し、また北奥羽に退いていた北畠顕信は、観応2年(1351)、三戸糠部の南部一族を率いて南下し、宇津峰の南朝方と合流をはかった。一方吉良貞家は、弟貞経を大将として出羽に派遣し、5月25日山形付近で南朝方と対戦した。

同年10月、田村宗季は伊達宗遠と共に、尊良親王の子で宇津峰宮の守永親王、顕信の弟の中院大納言守親らに従って多賀国府奪回に向った。10月22日、田村宗季らは防戦する亘理の武石や相馬勢を、柴田郡船岡町で破り多賀国府に進撃した。奥州管領吉良貞家は広瀬川に出て戦ったが敗れ、12月23日に須賀川の稲村館に退いた。ここに、北上した守永親王、中院守親らと出羽方面にいた北畠顕信は国府に入り、4年ぶりに多賀国府を奪還した。

翌観応3年(1352)、顕信は、足利尊氏討伐のため守永親王を奉じて、田村、伊達とともに国府を発ち、伊達郡に向かった。しかし須賀川に退いていた吉良貞家はこのすきをつき、北朝方を結集し、弟貞経と仁木遠江守らに顕信不在の国府を攻めさせた。3月11日からの攻撃で多賀城は陥落し、守将の中院守親は一旦宮城郡の山邑城に逃れたがこの城も落城した。急を知った顕信は救援するが及ばず、その後この宇津峰城に立て篭もった。以後文和2年(1353)5月4日までの1年2ヶ月の間、ここを舞台に再び北朝方の攻城戦が展開された。

勢いに乗った吉良貞家は、北朝方の武士を動員し、守永王、北畠顕信軍に対して攻撃を開始した。先ず支城攻略にかかり、同年3月24日相馬氏らに出陣を命じ、4月1日には郡山日和田に着陣し、翌日郡山の笹川で合戦があった。7月3日阿武隈川を渡り、守山と江持の境で戦い、南朝方は敗れて御代田城に退却したが、その日の夜には攻略された。7月9日矢柄城を攻め、8月7日宇津峰城の北側の八田河口に陣を張って南朝方に圧力をかけた。9月6日には夜襲を行い、10月10日の河曲口合戦へと展開する。しかし天嶮の要害であるこの城は容易には落ちず、北朝方は一旦攻撃を中止した。

宇津峰城を守ったのは田村宗季の一族である。北朝方の大軍の総攻撃にもよく耐えたが、翌文和2年2月28日、国魂氏らは河曲口で火ぶたを切り、4月5日に伊賀氏は東乙森を、蒲田兼光らは柴塚の陣を攻撃してこれをぬき、15日には最後の牙城である本郭東面の切岸上下で激烈な攻防戦が展開された。そこでの20日間の死闘の挙句、遂に支えきれず、5月4日宇津峰城は陥落した。守永親王、北畠顕信らは再び出羽に退去し、奥州の南北朝動乱はここにほぼ終結した。