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福島県郡山市富久山町久保田字山王舘…山王社

震災前取材

 

別名:窪田城、久保田城

館址は、古くは縄文中期遺跡の小丘で、この地の日吉山王社は、坂上田村麻呂の創建に成ると伝えられる。天正16年(1588)、伊達氏と葦名、佐竹氏らの連合軍とが戦った、夜討川合戦の際の伊達政宗の陣城。それ以前は、安積伊東氏の一族が拠ったと伝えられるが、詳細については不明。

日吉神社裏手に土塁の跡が残り、また北側の道路は空堀跡とも思える。

天正16年(1588)、二本松城の落城後、伊達政宗の仙道進出に危機感を持った葦名氏は、佐竹、二階堂氏らと計り巻き返しを図った。葦名氏らの連合軍が郡山に迫ったのを受けて、伊達政宗は逢瀬川北岸のこの地の山王山に陣を築き防備を固めた。

連合軍は、山王山の南側の郡山城を囲み、山王山の伊達政宗と対峙した。伊達勢に数倍する連合軍は、郡山城を激しく攻撃し、郡山城と山王館は分断される事態になった。山王館から伊達勢が押し出し乱戦になり、この本陣にも敵が押し寄せ、政宗にも危機が及んだ。

この時、伊達の勇将伊東肥前は、戦場からとって返し、押し寄せる敵を打ち払い政宗の危機を救ったが、自ずからは乱戦の中討ち死にした。

結局、両軍の勝敗はつかず、葦名氏内部での亀裂もあり、戦いは和議に持ち込まれ終結した。これが後の摺上原の戦いにつながっていく。