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福島県郡山市日和田町高倉字舘東

震災前取材

 

高倉城は、郡山市の最北端、本宮市との境の阿武隈川と五百川に挟まれた南北に長い独立丘陵の北端部に位置する。城山の標高は340m、比高は約110m。

城は北端部のピークとその南のピークにまたがる。北側の本郭は、長さ70m、幅30mほどで周囲に土塁が残り、南側の土塁上には櫓が建っていたとも考えられる。本郭中央部が少し高くなっており、石積みの跡が見られるが、戊辰戦争時に砲台が置かれたと伝えられる。

東側に虎口があり、3段程度の帯曲輪跡と思われる平場がある。この本郭下の帯郭に、戊辰戦争時に掘られたとする横穴の跡が残る。

この城は、二本松城主畠山満泰の嫡孫の治部大輔政泰が築いたと伝えられるが、詳細は定かではない。政泰は早くに父を失い、幼少であったため、二本松城は伯父の持泰が継ぎ、政泰は高倉城へ移ったとされている。

その後、天正3年(1575)、三春城主田村清顕がこの地に侵攻し、一時その支配下に入った。しかしその後その支配下から脱したが、同10年(1582)には再び田村清顕より攻撃された。

天正13年(1585)、伊達政宗の二本松城攻撃の際には、この地は伊達氏の支配下にあった。政宗は父輝宗の弔い合戦と仙道制覇を目的に、輝宗の初七日の法要を済ませた後、1万3千の兵を率い二本松城を攻めた。

これに対し、伊達氏の南奥での勢力拡大を阻止するために、常陸太田城主の佐竹義重は、葦名、相馬、石川、白川結城、岩城氏らと計り、3万の大軍で伊達領に侵攻、前田沢城に本陣を置き伊達勢と対峙した。政宗は城主高倉近江のほか、桑折摂津、伊東肥前、富塚近江らを配してこれに備えた。

佐竹、葦名らの連合軍は、兵を三隊に分け、一隊はこの高倉城へ向け、一隊は中央正面より、残る一隊は会津街道から観音堂山の伊達本陣に向かった。戦いはこの高倉から始まった。この城から伊東肥前、富塚近江らが出撃し連合軍と戦ったが、圧倒的な戦力差で伊東肥前は討ち死にし、伊達勢は劣勢となった。ここに遊撃軍の伊達成実がなだれ込み、城方とともに連合軍に打ちかかり、また瀬戸川付近でも激戦が始まり、乱戦となった。この地の戦闘もまれに見る激戦であったため、この地の合戦を高倉合戦ともいう。

この合戦は、翌日早朝、佐竹勢が退いたために、辛くも伊達勢が勝利し翌年の二本松落城、伊達氏の仙道制覇へと続いていく。しかしその後、天正18年(1590)の奥州仕置により伊達氏はこの地より去り、この城は廃城となった。