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福島県郡山市富久山町久保田字山王舘

震災前取材

 

この碑は、俗に仙台佛と言われ、もとは郡山合戦の主戦場となった逢瀬川の北にあったが、水害により元文5年(1740)に現在の郡山機関区付近に移され、その後昭和45年(1970)、県道拡張に伴いこの地に移された。

天正16年(1588)7月、伊達政宗と葦名、佐竹氏等の連合軍とが、伊達の支配下の郡山城を囲み、山王館に本陣を置いた伊達勢と、逢瀬川を挟んで対峙した。伊達勢の数倍の兵力の連合軍は、郡山城を激しく攻め、郡山城と山王館は分断される危機に陥った。

伊達方の勇将伊東肥前重信は、討死にを覚悟で政宗の身代わりを願い、政宗の馬印を掲げて逢瀬川に打って出た。戦いは乱戦になり、政宗の本陣に敵が迫り政宗に危機が及ぼうとするのを見た伊東重信は、手勢30余騎と共に取って返し、政宗の危機を救ったが、重信も深手を追い馬上より落下し、そのまま息絶えたという。

その後、この合戦に辛くも勝利した政宗は、自分の身代わりとなった重信の誠忠を称え、子の重綱に桃生郡小野城を与えてそれに酬いたと云う。

その後、伊東氏は伊達家の重臣としてあったが、伊東重信の孫にあたる重孝は、寛文8年(1668)、伊達兵部の専横を憎み、これを討とうとしたが果たせず捕縛され、仙台川内で斬首された。これにより、伊東一族は流罪、切腹、追放等処分された。

しかしその後寛文11年(1671)、伊達安芸の訴訟、そして酒井邸での原田甲斐による刃傷事件が起き、原田甲斐はその場で切り殺され、伊達兵部は失脚した。その結果、伊東重孝の忠烈が称えられ、四代藩主伊達綱村により伊東家は再興した。

元禄7年(1694)、仙台藩主綱村の命により、伊東重信の子孫の重栄が古戦場跡に碑を建立し、伊達家では参勤交代でここを往復する際、必ず立ち寄り香華をたむけたという。こ の碑には、この寛文事件のいきさつも影響していると考えられる。