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福島県郡山市田村町守山字三の丸

震災前取材

 

守山城は、石垣を 持つ城跡としては郡山市内で唯一のものである。二の丸と三の丸との間に、幅25m、深さ2.5m~3mの堀跡が残されており、長さ70m、高さ6mにわたって野面積みの石垣が積まれている。本郭跡には守山八幡宮があり、二の郭跡は現在宅地と畑になっており、守山小学校が三ノ郭跡である。本郭跡の周囲には低いながらも土塁が残り、その外は黒石川に向かって落ち込む急斜面となっている。

坂上田村麻呂が蝦夷追討の際にこの地に城を築いたのが始まりとされる。その後、坂上田村麻呂の子孫とされる田村庄司氏が本拠地として、南北朝時代までこの地方を支配した。田村宗季は南朝方に属し、宇津峰城に北畠顕信、守永親王を迎え、観応3年(1352)から翌年にかけて宇津峰城は北朝方の攻撃をうけ、この守山の地も戦場になった。激戦の末に宇津峰城は陥落し、田村氏も一時衰退したものと思われる。

その後、田村庄司氏は一定の勢力を維持できたようだが、「小山義政の乱」の折には義政に与し、関東公方に反旗を翻した。このため、応永3年(1396)、鎌倉公方足利氏満みずからが率いる討伐軍によって攻められ落城、所領は没収された。

代わって以後は、別系である三春田村氏の居城となり、永正元年(1504、異説あり)、三代義顕が三春城へ居城を移すまで本城となった。その後、三春田村氏は仙道制覇を伊達氏、結城氏、葦名氏らと争ったが、結局伊達氏の傘下に入った。

天正16年(1588年)、伊達政宗は、白石宗実、片倉小十郎景綱らをこの城へ配し、蘆名氏を摺上原の戦いで破り、南奥羽をほぼ制圧した。しかし豊臣秀吉の奥州仕置により、伊達氏がこの地を去ると、代わって蒲生氏郷の支配下に入り、慶長3年(1598)に蒲生氏が宇都宮城へ移った後は、上杉景勝の支配下に入り、慶長6年に再び蒲生氏の支配下に入ったが、元和元年(1615)一国一城令により廃城となった。