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福島県郡山市熱海町高玉

震災前取材

 

高玉集落の奥の小高い山の上に高玉城はある。民家脇から急な階段があり愛宕神社に続き、愛宕神社一帯が主郭跡となる。階段の途中、3段ほど帯曲輪状の地形がみとめられる。愛宕神社の位置は、本郭東の腰曲輪にあたり、本郭側に土塁状の地形がある。本郭は東西100m、南北25mほどで、中央部に高さ2mほどの土塁がある。その西側に25m四方のスペースがあり、北に下りる虎口が見られる。本郭の西側は二重堀切で遮断され、南北に竪堀が見られ、南の尾根には4ヶ所ほどの郭が見られる。

応永元年(1394)源義家の子孫の顕実石筵冠者太郎左衛門尉が城を築いたのが始まりと伝えられる。その後、天文元年(1532)二本松藩畠山氏の支城として古くから高玉を領した高玉氏がこの山の地形を利用してさらに堅固な城にしたと伝えられるが、天文20年(1551)、安積伊東氏一族、高玉紀伊守頼継が築き、この高玉、石筵、横川を治めたとも伝えられる。

天正14年(1586)二本松城を攻め落とし安積郡を手に入れた伊達政宗は高玉近江守にこの地を与えた。しかし高玉常頼は伊達氏を嫌い、会津黒川城主葦名氏に従い伊達氏に反抗した。政宗は、天正17年(1589)、葦名氏の内訌に乗じて会津領へ侵攻、安子島城を一日で攻め落とした。そして翌日には高玉城を攻めた。常頼夫妻と女婿の荒井新兵衛夫妻は籠城し奮戦したが、片倉小十郎を中心とした1万余の軍勢に抗し切れずに自害した。

政宗は撫切りを命じ、城内の領民、女子供から牛馬に至るまで全て殺された。しかし常頼の3歳になる娘は乳母の命乞いにより助けられ、親族の高倉城主高倉近江のもとで育まれ、長じて後に、高倉の常円寺に常頼夫妻の供養碑を建てたと伝えられる。

この高玉城落城の1ヶ月後、政宗は磐梯山麓摺上原で、宿敵葦名氏を討ち果たし、会津領を手に入れることとなった。