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福島県郡山市熱海町安子島字舘前

震災前取材

 

城は南から五百川の流れる低地に張り出した台地縁に立地し、五百川の低地からの比高は20m程度である。この台地北側の集落を通る道が旧道 、現在の津島神社から台地に上る道が大手口だったと思われ、桝形虎口が置かれていたと考えられる。台地上の郭跡は現在耕地整理した水田になっており、一見しては城跡には見えないが、安子ヶ島小学校のある台地との間に深い谷があり、おそらく天然の空堀の役目を果たしていたと思われ、また城址碑の建つ位置は堀だったようである。

安子島氏は、頼朝の奥州征伐でこの地を領土に得た工藤祐経の子孫で、安積郡に勢力を張った安積伊東氏の一族である。しかし伊東一族は結束できないまま、戦国期を向かえ、安子島氏もはじめは畠山氏に、その後は葦名氏にしたがっていた。

天正14年(1586)二本松城の畠山氏を滅ぼした伊達政宗は、葦名家中の義広入嗣を巡る混乱に乗じて、天正17年(1589)会津攻めを開始した。安子島城は会津攻めでの要衝にあたり、真っ先に包囲された。城主の安子島治部大輔祐高は、一戦交えんとしたが、あまりの劣勢を悟り会津に退去した。翌日には高玉城も落城し、その約一ヶ月後、磐梯山麓摺上原合戦において葦名氏が敗北を喫し、伊達氏が会津を手に入れることになる。

その後奥州仕置きの結果、伊達氏は岩出山に去り、この地は蒲生氏郷が領することとなったが、この時期に廃城になったと思われる。