福島県郡山市桜木一丁目

震災前取材

 

郡山城は、北を流れる逢瀬川に沿った断崖上に築かれた城で、現在は市街地に飲み込まれており、所々に段築状の地形や堀跡状の遺構と思われる地形が見られるが、当時のものか後世のものかは定かではない。

この城は、安積伊東氏一族の郡山氏の居城であった。戦国末期、伊達政宗が米沢から南下し仙道制覇を目指し郡山に進出し、葦名、佐竹、相馬、二階堂氏らの連合軍と激戦を繰り返した。

天正13年(1585)、二本松城が伊達政宗の手に落ち、政宗は本格的に仙道制覇に乗り出した。葦名氏、二階堂氏らは、これを阻止するべく、天正15年(1587)、葦名氏は伊達氏に対して積極攻勢に転じ、数回にわたり苗代田城に攻撃を仕掛け、伊達、田村の分断と二本松攻略を狙った。

天正16年(1588)2月、伊達政宗が大崎合戦で敗北すると、これを好機とした葦名義広は、大内定綱を先鋒とし4000の兵を伊達領に進めた。定綱は12日に苗代田城を攻略、後続と合流して伊達方の郡山城、窪田城、高倉城、本宮城を攻め立てた。伊達領南方の抑えを担当する二本松城の伊達成実の兵力は、大森城の片倉景綱、宮森城の白石宗実からの援軍を合わせてもわずか600人ほどであったが、成実は巧みに防戦して2ヶ月の間何とか葦名の攻勢をしのぎ続けた。

また、小手森城の石川光昌が相馬義胤に調略されて離反、政宗自身は、北から期をうかがう最上義光と相馬方への備えに回り、郡山方面に兵を割くことはできなかった。しかし、葦名家中には佐竹派と葦名譜代派に深刻な対立があり、伊達成実はこれに乗じて大内定綱を調略した。

北方の最上勢との戦闘が膠着状態になると政宗は葦名、相馬に備えて南方へと兵を動かし始め、伊達派と相馬派に分かれて紛糾していた田村氏の三春城への相馬義胤の入城を阻み、自ら兵を率いて小手森城を攻略した。

その上で伊達勢は、郡山、窪田両城に兵を進め、葦名勢と対峙し、以降40日間にわたって小競り合いを繰り返した。伊達氏は北方の最上氏との和議が成立していない中で、また葦名氏は佐竹氏からの本格的な援軍が期待できない中、互いに積極的な攻勢に出られない情勢であったが、7月に入り、伊達氏と最上氏との和議が成立すると、葦名義広もまた郡山、窪田両城の攻略をあきらめ、石川昭光、岩城常隆の調停を受けて撤退した。

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