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福島県郡山市湖南町赤津字霊屋前

震災前取材

 

別名:名馬城、夕日城

元亀2年(1571)、安積伊東氏一族の小倉城主中地氏の氏族赤津弾正時綱が築城した。

国道294号線の黒森峠の入口に立地、常見川とその支流に三方を挟まれた比高30mほどの独立丘陵が鞍馬城跡で、赤津集落の出入口を固めた形となっている。現在は舘山公園として整備されている。地方豪族の比較的小規模な城だが、枡形や切岸、堀切などの戦国期山城の技巧がみられる。

頂部は南東から北東にかけてそれほど大きくない3つの平場が直線状に並んでおり、中央の平場が面積も大きく、長軸は60mほどで最高所となっており、これが主郭と思われる。郭は堀切で区切られ、主郭と二の郭の間は土橋で結ばれている。

文治5年(1189)の奥州合戦の功により、工藤祐経は安積に所領を得て、その子孫は安積郡内外に割拠し安積伊東氏として繁栄した。この湖南一帯は小倉城を本拠とした中地氏が治め、更に各地に城館を築き一族を配した。しかし、安積伊東氏は総領権が確立せず、一族の結集がないままに戦国時代を迎え、周辺諸勢力の支配下に組み込まれていった。

永禄2年(1559)、会津黒川城主葦名盛興の侵攻により安積伊東氏はその麾下に属し、中地氏やこの地の赤津氏も葦名氏の麾下となったと考えられる。しかし、天正17年(1589)の摺上原の戦いで、会津黒川城主葦名氏が伊達政宗に滅ぼされると、葦名氏の麾下にあったこの城も廃城となった。