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福島県二本松市郭内三丁目

震災前取材

 

二本松の丹羽氏は、もとは織田信長の重臣であり、信長亡き後は秀吉のもと、越前北の庄の城主として120万石の大大名だった。

しかし関ケ原の戦い後、丹羽長重は領地を没収され浪々の身となったが後に徳川から召しだされ、常陸国古渡に一万石を与えられた。その後、棚倉、白河へと領地を替え、その子光重の代に二本松へ移り、10万7百石となった。

丹羽氏は、家の浮沈を繰り返し、苦しみを味わったこともあって、二本松初代藩主光重は「家憲」の中で、
「上は公命を尊重し、下は士民を仁恤(じんじゅつ)せよ」
上は幕府の命令を尊重し、藩士や領民に対しては情けをかけた政治を行うように、と書き残している。

領地替えや少しの落ち度で、いつ領地を没収され取りつぶされるかわからない時代の中で、注意深く治世を行ったものと思われる。歴代の藩主もこの家憲を藩政の方針とし、今日の扶養手当や養老手当などのような福祉制度をとった。戒石銘はこのような藩の方針の中で生まれたものと思われる。

この戒石銘は、藩庁前の家臣の登城路にあたる場所に露出している長さ約8.5m、最大幅約5mの白然石の大石に刻まれている。5代藩主丹羽高寛が、藩の儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、寛延2年(1749)藩士の戒めとするために命じて刻ませたもの。一夜にして刻まれたと伝えられる。

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爾 俸 爾 禄    民 膏 民 脂

下 民 易 虐    上 天 難 欺

爾の俸、爾の禄は  民の膏、民の脂なり

下民は虐げ易きも  上天は欺き難し

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「武士の俸給は、人民があぶらして働いたものである、弱い人々を虐げることは易いが、それは天を欺くことで天罰が下るだろう」と解釈される。

藩政改革と網紀粛正の指針とされたこの戒石銘が、長年にわたり二本松藩士の士風を形成したと言えるだろう。