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福島県二本松市郭内

震災前取材

別名:霞ヶ城

二本松城は、別名「霞ケ城」といい、現在は城跡が「霞ケ城公園」として整備されている。

二本松城は、山頂部の本丸部に中世城郭が、山麓の二の丸、三の丸には近世の城郭が併用されているところに特徴がある。

高々と築き上げられた石垣、その上には二層櫓、平櫓、城壁、表門である箕輪門が復元されている。箕輪門を経て御殿に至るがこの間に塀重門があり、今も枡形の石垣が残る。

二の丸に上ると、趣向を凝らした庭園、茶室があり、近世の治世の城、藩主の居館といった趣が強い。しかし、二の丸から本丸に向かう途中からその様子は一変し、荒々しい中世の戦いの山城の様相を見せる。山頂に至る間に多くの郭跡と思える平場があるが、大きくは本城、東城、西城と3つの曲輪からなる。山頂部の石垣は、新旧様々であるが、築かれた時代をそのまま映しなかなかのものだ。

二本松城は、嘉吉元年(1441)に畠山満泰が白旗ヶ峰に築城し二本松城と号し、以後140余年、畠山氏9代の居城とした。天正13年(1585)、時の城主畠山義継は、伊達政宗の父輝宗を拉致したが、輝宗共々射殺され、翌年城は政宗に攻められ落城した。

その後、伊達領として片倉景綱、伊達成実などが城代として入る。 天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置により、城は会津若松城主蒲生氏郷の支配下に入り、その後、上杉、加藤氏の会津入封に伴い、その管理下に置かれ各々城代が置かれた。

寛永20年(1643)白河より丹羽光重が10万石で入封し、城を改修して山麓に城館を築いて近世城郭としての体裁を整えた。丹羽氏は、12代続き長裕のとき明治を迎えた。

慶長4年(1868)7月、戊辰戦争において、幕府軍として新政府軍に対して徹底抗戦し、城内、家中屋敷の全てを焼失した。

 

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