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福島県二本松市安達ヶ原四丁目

震災前取材

 

安達ヶ原の鬼女伝説は、平安時代の平兼盛の歌「陸奥の安達ヶ原の黒塚に、鬼こもれりと聞くはまことか」の詠み歌を基として、その後謡曲や歌舞伎に取り上げられ世に広まった。その鬼女伝説は概ね次のようなものだ。

京都のある公卿屋敷に姫が生まれた。皆に大事に育てられたが、五歳になっても口が利けなかった。医者にも診て貰ったが治ることはなかった。あるとき思い余って診てもらった占いに、「この病いを治すには、腹の中の赤子の生き肝を食わせたら治る」と言われた。

この姫には生まれたときから「岩手」という乳母が付いていたが、この乳母はそれを信じ、遠くみちのくに旅立つこととなった。乳母には自分の腹を痛めた「恋衣」という娘がいたが、形見の守り袋を残し、涙ながらに旅立った。行けども行けども赤子の生き肝が見つかるはずもなく、とうとう京の都からほど遠い、安達ヶ原にやってきた。そこには手頃な岩屋があり、岩手はそこに住み着いた。

ある日のこと若い夫婦が道に迷い一夜の宿を求めた。見ると若い女は腹が大きく身重のようだった。岩手は囲炉裏端にわら布団を敷いて若い女を休ませたが、しばらくすると身重の女は腹痛を起した。連れの男を安産のお守りと腹痛の薬を買いにやり、女の隙を見て、隠し持っていた出刃包丁で女を突き刺し、腹を割って赤子を取り出した。

その肝を手にした姿は、もはや人間の姿ではなかった。男が戻ってくるまでに、この女の身体を清めようとその体に手を掛けると、首にお守り袋が見えた。なんとそれは昔、都を出るときに娘の恋衣の首に掛けてやった守り袋ではないか。岩手は、自分の娘の恋衣を手にかけてしまったのだ。

岩手は、自分のしてしまった事に苦しみ、泣きもだえ、とうとう気が狂い、本当の鬼になってしまった。

それから、何年か後の聖武天皇の頃、阿闍梨祐慶東光坊という熊野の修行僧がはるばる奥州まで旅をし、途中、安達ヶ原で日が暮れてしまった。安達ヶ原はどこを向いても茫々とした大草原であった。日は暮れ食べるものもなく、岩に寄りかかり観世音菩薩のお経を唱え始めると、はるか彼方に火影が見える。それを目当てに進むと岩屋があった。岩手の棲む岩屋だった。

何も知らない東光坊は、一夜の宿を求めた。岩手は東光坊を中に招じ入れた。しばらくすると岩手は囲炉裏の薪をとりに行くと言い外に出たが、そのとき奥の間を指しながら、その戸を開けないように言い置いた。岩手が外に出た後、その奥の間からなにやら生臭い匂いがしてくるようで、東光坊は恐る恐る戸を開けると、そこには夥しい人の骨が山積し、鼻をつまみたいほどの死臭が押し寄せてきた。東光坊は、ここが名高い安達ヶ原の鬼婆のすみかだったことを理解した。

東光坊は、笈を背に一目散に逃げ出した。一足違いで小屋に戻った鬼婆は、怒りの形相で、東光坊を追いかけた。その姿は、もはや人のものではなかった。髪はザンバラに乱れ、目はつり上がり、口は耳まで裂けていた。ギラギラと出刃包丁を振りかざし、ものすごい勢いで追いかけてきた。東光坊は観念し、背中の笈から如意輪観世音菩薩を取り出し一心不乱にお経を唱えた。すると、真っ暗闇の中、空中高く如意輪観音が浮かび上がりその手から無数の光の矢が出た。その無数の矢が鬼婆の胸元を貫いた。

鬼婆は観世音菩薩の光の矢を受けて最後を遂げた。わが娘、わが孫を手に掛け、生き地獄に落ちて苦しんだ岩手を救ったのは観世音菩薩であった。東光坊は、命を救ってくれた輪観世音菩薩を祀り、岩手を葬ったところが黒塚であると云う。

 

松尾芭蕉と曾良は、奥州街道を逸れ、阿武隈川を越えてこの鬼婆伝説を残す観世寺を訪れた。その昔、平兼盛が詠んだ「みちのくの安達ヶ原の黒塚に、鬼こもれりと聞くはまことか」(拾遺和歌集)の歌は、一行を黒塚にいざなうに十分であった。観世寺の開基は奈良時代にまでさかのぼる。観世寺には奇石怪石が横たわり、曽良の随行日記には、見聞した様が次のように記されている。

アブクマヲ越舟渡し有リ。その向ニ黒塚有。小キ塚ニ杉植テ有。又、近所ニ観音堂有。大岩石タヽミ上ゲタル所後ニ有。古ノ黒塚ハこれならん。右ノ杉植し所は鬼ヲウヅメシ所成らんト別当坊申ス。