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福島県二本松市戸沢字田向

震災前取材

 

別名:田中館

南北朝期に、この地に南朝方の肥後菊池氏の一族が、南朝方の軍勢の催促のために来たが、その任を全うすることが出来ず、この館に住したと伝えられる。後に、四本松の石橋氏や三春の田村氏に属し、当時の石橋氏の重臣の大内氏の娘を娶り、その子孫はこの地域の築山館、松ヶ平、月夜畑、赤馬館に分居した。菊池一党は、この地に一定の勢力を張ったようだ。田村清顕の娘の愛姫が、米沢の伊達政宗に輿入れするときには、この田向館に輿をとめ宿している。

しかしその後、この地の石川弾正光昌は、大内定綱と計り石橋氏を追い、石橋氏は没落した。石橋氏の領地を継承した大内定綱は、大勢力に挟まれるなか、田村氏、伊達氏に従属しながら独自の勢力伸張を図ったが、伊達政宗が家督を相続したことを期に伊達氏を離反し、二本松の畠山氏についた。このため伊達勢により攻められ、この地の小手森城は800人以上が撫で斬りにされた。

このとき、大内氏に連なるこの地の菊池一党も小手森城に篭城し、その多くは討たれ、田向館をはじめとした菊池一族の居館もすべて伊達勢に落とされた。残った菊池一族は帰農し、この地に住み続けたものと思われる。

その後、慶長の初めにはこの地は上杉領になっていたが、関ヶ原の戦いの後、相馬氏がこの地に攻め込んだ。帰農していたとはいえ、一族の結束は固く、隠し持っていた武器を持ち出し頑強に抵抗し、相馬勢は思いがけない反撃に多くの犠牲を出し撤退した。