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福島県二本松市油井字供中

震災前取材

 

この供中口では、慶応4年(1868)7月29日に戦いが始まった。二本松藩は樽井隊を中心に陣を張っていたが、樽井隊は破られ後陣の愛宕山に陣を張る朝河八太夫と小沢幾彌が大砲にて応戦、おおいに西軍を悩ませた。

しかし、戦況は二本松藩にとって次第に不利となり、八太夫は農兵に金子を与え帰宅させたが、その後近くで破裂弾が破裂し八太夫、幾彌ともに瀕死の重傷を負い退却した。

供中口には、農兵司令の三浦権太夫義彰が、老兵、農兵、それに少年隊の一部を率い配されていた。義彰は、「人材を登用し、能吏に任じて兵制を改革し、軍備を充実すべし。また冗費を節約すべし。さらに費用が続かねば、三百石以上の重臣の俸給を半減すべし」という藩政刷新を説いた建白書を 藩に提出したが、重臣たちの反感を買い投獄処分となったが、戊辰戦争が始まると許され供中口を防備した。

しかし、義彰は、日頃から王政復古を願っており、弓矢の矢じりを取り捨てて、狩衣姿で出陣した。政府軍ではこの矢を見て、二本松にも勤皇の士がいることがわかった。義彰は、味方の農兵達を退去させ、「あす散るも、色は変わらじ、山桜」と辞世の一句を残し、この地で一人、壮烈な自刃を遂げた。大正7年 (1918)、東軍では唯一靖国神社に合祀された。