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福島県二本松市上川崎字稚児山

震災前取材

 

稚児舞台の地で、阿武隈川は大きく蛇行し、奇岩怪岩が重なる景観は、福島県の10景にも選ばれている。

この地には次のような伝承が伝えられる。
前九年の役の折に、源義家は安部一族を征討し、その戦勝祝いに稚児を岩上で舞わせた。その際に間近に見ようとした義家は、馬もろともに岩上から落下し、馬は死んだものの義家は無傷だった。

その馬の血が石に残り、「血駒石」と呼ばれ、やがて「稚児石」と呼ばれるようになったと云う。

また、次のようにも伝えられる。
源義家と安部貞任がこの地で戦いを繰り広げた。義家は島山に、貞任は稚児山に陣を敷き、壮絶な弓での戦いを数十日も続けた。そんなある日、源氏の兵が、「京の都では稚児でさえ舞を舞うのだ、田舎者にはそれもできまいに」と、対岸の岩の上から大声ではやし立てた。

これを聞いた貞任は、娘二人を稚児に仕立てて、岩の上で舞を舞わせた。二人の乙女は、天女のように舞い、敵味方双方から喝采を浴びた。しかし二人の乙女は、敵に生き恥をさらしたと、断崖から淵に身を投じた。義家はこれを不憫に思い、二人の稚児の塚を築き、二人の乙女が舞った岩を「稚児舞台」と呼んだと云う。

次のような伝説も伝えられている。
正平元年(1346)頃、当時の二本松の領主の安達太郎重忠の子の次郎武時がこの地に遊びに来た際、大亀に乗り川遊びをする女を見初め、城に連れ帰り女児をもうけた。ところがある日、突然に「我は天女なり」と言い飛び去ってしまった。

乳母はこの地に来て舞台をつくり、稚児に舞を舞わせ母の帰りを待ったところ、母の天女御前が飛来し、稚児を抱いてはるか彼方に飛び去ってしまったと云う。