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福島県二本松市百目木字本舘

震災前取材

 

百目木城は、四方に山を望む独立丘陵に築かれた城だ。百目木地区の市役所支所裏の丘陵一帯が城域になる。城は、保育所跡が大手口になる。城の東側山麓に「搦め手」の地名も残り、東側が搦め手だったと考えられる。比高は50mほどで、尾根上に馬蹄形に二の郭、本郭、三の郭、出丸、東の出丸と曲輪が並ぶ。尾根や斜面を削平し何段もの郭を造成し、郭の数は非常に多い。すり鉢状の入り口に当たる保育所跡に居館があったのかもしれない。

築城主、築城時期ともに定かではないが、応永年間(1394~1428)頃に、石川氏十八代石川義光の弟の盛光が居城としていた伝えられている。永禄から天正年間(1558~88)にかけて、四本松城主石橋氏四天王の、石川摂津守及びその子の弾正が居城とし、百目木、田沢周辺を領していた。

天正8年(1580)、主君石橋尚義の病死後、同じ四天王の小浜城主大内備前定綱らと謀り、尚義の遺児松丸を相馬へ追った。しかしその後石川弾正は三春城主田村氏に属し、大内定綱と袂を分かった。天正11年(1583)、塩松地方一円を掌握することを意図する大内定綱は、二本松城主畠山義継らの援助を受けて3千の兵を率い百目木城を攻めたが、石川弾正は1千の手勢で城に篭り、大内勢を撃退した。

天正13年(1585)、伊達政宗が大内定綱を討つべく南下した際は政宗に従い軍功をあげ、小手森城と築館の2城が与えられた。しかし小浜城に入った白石若狭宗実の配下に置かれたことを不服とし、田村清顕が死ぬと相馬氏を後ろ盾とし伊達政宗に反旗をひるがえした。天正16年(1588)、伊達政宗は石川弾正追討のため、大軍を率いて攻め寄せ、弾正は小手森城に籠城し奮戦したが城は落城、相馬へ敗走した。弾正はその後会津へ向かい、関ヶ原の戦いの前、浪人を募っていた上杉景勝の扶持を受けたが、上杉氏没落の後は流浪して再び百目木に引きこもり病死したとされる。