福島県二本松市小浜字殿原

震災前取材

 

別名:上館、四本松城

宮森城は、小浜川にそって北に突き出した独立丘陵に築かれた城。この城は、上館とも呼ばれ、小浜城(下館)と連携した城館であった。

応永3年(1396)、奥州管領に任じられた宇都宮氏広が築城したとされ、当初はこの城を四本松(しおのまつ)城と称した。文明3年(1471)、塩松石橋氏家臣の大河内修理がこの城を修築して入った。

現在、本郭跡には矢取八幡神社が建てられており、本丸跡には礎石や庭石に使われていたと思われる石が残されている。当時の郭跡や堀切などが残っている。

永禄11年(1568)、石橋氏は尚義の代に、田村氏に内応した小浜城主大内義綱らによって追放され没落した。この翌年、大内義綱と石川光昌、寺坂信濃は、同じ石橋四天王と言われていた大河内備中を宮森城に攻め滅ぼし、宮森城は大内氏が領した。

義綱の子定綱が家督を継ぐと、大内氏は田村氏からの独立を画策し、一旦は伊達氏への臣従を約しながら、畠山氏、佐竹氏、葦名氏らと結び、伊達氏と対峙する道を選んだ。このため、天正13年(1585)、田村清顕の娘婿である伊達政宗によって攻められ、定綱は宮森城、小浜城を放棄して二本松城へ、その後会津へと逃れ、宮森城は伊達氏が支配するところとなった。

伊達政宗は、引き続き二本松城主畠山義継を攻めるため小浜城に入り、政宗の父輝宗はこの宮森城に入った。畠山義継は政宗に降伏を申し入れたが、政宗の和議の条件は厳しく、畠山氏の所領のほとんどが召し上げられるもので、それでも伊達輝宗の斡旋により、幾分か条件が緩和され、和議が結ばれた。

しかし、同年10月、義継は輝宗の尽力に謝意を表し宮森城を訪れたがその帰り際に輝宗を拉致した。伊達勢はこれを追い、阿武隈川河畔栗ノ須で追いつき、混乱の中伊達輝宗、畠山義継ともども殺された。この事件をきっかけに、政宗は一気に南奥を制覇していく。

この後、宮森城には白石宗実が入り塩松地方を押さえ、政宗の仙道制覇の拠点の一つになった。しかし、天正19年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって政宗は安達郡を没収され、宮森城は蒲生氏郷の所領となる。江戸時代には二本松藩領となり城代が置かれたが、やがて廃城となった。

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