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福島県二本松市小浜字下館

震災前取材

 

別称:下館

小浜城址は二本松市役所岩代支所東側の丘陵一帯にある。最も高い平場を本郭とし、その四方に六つのやや大きめの郭が存在し、さらに南西方向には小規模な郭を階段状に配している。小浜城の南方約2kmに宮森城があり、小浜城は下館、宮森城は上館と称され、両城の間に集落があって、一体化した構えであり、両城一体とした防御戦略がたてられていた。本丸跡は昭和56年(1981)に発掘調査されており、7棟の掘立建物跡が確認されている。また、本丸入口の石垣は、蒲生氏郷時代のものと推定されている。現在、本丸跡は公園として整備されている。

小浜城の成立は奥州探題の置かれた塩松(四本松)城の支城として、文明3年(1471)石橋氏家臣の大内晴継がこの地に築城、大内氏のもとの領地だった若狭国小浜に似ていたため小浜城と名付けたと伝えられる。

永禄11年(1568)、小浜城主の大内義綱、定綱は、やはり石橋氏の重臣の石川弾正らと謀り、石橋尚義が病死すると間もなく遺児松丸を相馬へ追い、塩松地方一帯を支配下に置いた。大内氏はその後、伊達氏や葦名氏、田村氏などの有力大名と同盟離反を繰り返しながら領国を保っていた。

天正12年(1584)、伊達政宗が伊達輝宗の跡を継ぐと、大内定綱は米沢の伊達氏への従属を誓うが、翌年にはこれを反故にし、葦名氏、畠山氏と結び、伊達政宗に対峙した。これに対し政宗は、自ら軍を率いて塩松地方へ攻め込み、支城の小手森城を攻めて、奥州では類のない800余名の撫で斬りを行い、それに恐怖した定綱は、頼みの会津勢の救援も得られぬまま、城に火を放って会津へ落ち延びた。

政宗は小浜城へ無血入城し、宮森城には政宗の父の輝宗が入った。政宗は天正14年(1586)8月までの約1年間この城に滞在したが、この間、政宗の父輝宗が畠山義継に拉致殺害される事件が起き、小浜城は二本松畠山氏攻撃の拠点となった。なお、大内定綱は後に政宗に降伏し、許されて伊達氏の重臣となった。

天正19年(1591)、奥州仕置により、この地一帯は、会津に入った蒲生氏郷領となり、家臣の蒲生忠右衛門が2万5千石を与えられて小浜城代となった。現在、本丸跡に残されている石垣はこの時築造されたもの と考えられる。その後会津に、上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明が次々に配され、その都度小浜城には城代が置かれた。その後寛永20年(1643)丹羽長重が二本松藩に入ると二本松領となった。