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福島県二本松市沖

震災前取材

 

天正13年(1585)、大内定綱は伊達に臣従する約束を反故にし、畠山氏や葦名氏と結び伊達政宗と対峙した。伊達政宗は田村清顕とともに大内定綱を攻め、小手森城を攻めこれを撫で斬りにした。大内定綱は相馬に逃亡し、政宗は、大内氏の小浜城に入り、政宗の父の伊達輝宗は宮森城に入り、これを拠点とし二本松の畠山氏攻めを開始した。

これに対し、二本松の畠山義継は政宗に降伏を申し出た。しかし政宗は義継の降伏を許さなかったが、父輝宗のとりなしもあり降伏を受け入れたが、義継には、二本松のわずかな所領しか安堵しなかった。これは、畠山氏が大名としての地位を維持できるものではなかったと云う。

義継は、輝宗のとりなしへの礼のため宮森城を訪れたが、このとき伊達勢に暗殺される恐れを持ったとも云われ、輝宗を拉致し人質にとり二本松に向かった。伊達勢はこれを追い、小浜城からもとる物もとりあえず軍兵が追いかけた。畠山勢は皆刀を抜き、輝宗と義継を取り囲み、伊達勢は輝宗が人質に取られているため手を出すこともできずこの地まで来た。伊達勢はこれ以上追いかけることもかなわず、鬨の声をあげどっとおしかけ、義継をはじめ畠山勢50余人をもらさず討ち取った。

この乱戦の中で伊達輝宗は命を落とした。42歳だった。この輝宗の死は、伊達勢の鉄砲によるもの、あるいは畠山勢の手にかかったものと様々だが、定かではない。畠山義継は切り刻まれ、その遺体は藤蔓で繋ぎ合わされ無残にさらされたという。

政宗はすぐさま二本松城の攻城を開始し、畠山勢は義継の子国王丸を立てて籠城した。城は政宗の猛攻によく耐えたが、翌天正14年(1586)7月、二本松城は落城し、大名としての畠山氏は滅亡した。

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