福島県二本松市油井字漆原町

震災前取材

 

高村智恵子は日本の洋画家であり、彫刻家の高村光太郎は夫である。彼女の死後、夫が出版した詩集『智恵子抄』は有名である。

明治19年(1886)5月、現在の二本松市で酒造業を営む父長沼今朝吉と母せんの二男六女の長女として生まれた。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、この地方の資産家であった。明治36年(1903)、福島高等女学校(現福島県立橘高等学校)を卒業、日本女子大学校に入学した。

智恵子は、落ち着いて、口数は少なく、物事に熱中する反面、ユーモアに満ち、急に人をアッと驚かすようなところがあったといい、自転車をいちはやく乗りこなし、たたむ必要のない不精袴を考案したり、またテニスを得意としていた。

大学在学中に油絵に興味を持つようになり、明治40年(1907)、大学を卒業後、両親の反対を説得して東京に残り絵画の勉強を続けた。明治44年(1911)25歳の時に、平塚らいてうが中心に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、当時としては稀な女流油絵画家として人々に注目されるようになっていた。

このような時期に、フランス留学から帰国した彫刻家であり、歌人、詩人そして絵画にも通じ、新たな評論活動を行っていた高村光太郎と、智恵子の先輩、柳八重の紹介により、光太郎のアトリエを訪問し出会った。翌年の7月、光太郎の写生旅行先で偶然に再開し、この時より二人は好意を越えた感情をもちはじめた。その後光太郎が上高地に仕事で滞在中、智恵子も1ヶ月ほど一緒に油絵を描き、互いの芸術のよき理解者として愛と信頼を深め、結婚を決意し、大正3年(1914)28歳で結婚(1933年入籍)した。

結婚後は、定収もない中、窮乏生活を送りながら夕食費や毛布を節約しても彫刻や絵を大切にし創作活動を続けていた。当初の光太郎の詩は、社会や芸術に対する、怒りや迷い、苦悩に満ちたものだったが、智恵子と出会ってからは、穏やかな理想主義とヒューマニズムに包まれるようになったとされる。光太郎は「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と語っている。

しかし、体が弱く病気がちだった智恵子は、1年の半分を郷里で暮らすようになった。故郷の自然をこよなく愛した智恵子は、しばらく帰ると体の具合も良くなったといわれている。

しかし、大正7年(1918)父今朝吉の死によって、生家の繁栄にかげりが見え始めてくる。弟啓助に経営がまかされていた生家の長沼酒造店が破産、昭和4年(1929)には一家は離散してしまう。心のよりどころだった「ふるさと」の喪失は、智恵子自身にとっては大きな心の痛手だったと思われる。

またこの頃、智恵子は自分の芸術創作に苦しみ、その限界を感じるようになっていた。実家の破産による心労や光太郎の長期の旅行からくる孤独感、そして自分の芸術創作への絶望感が重なり、昭和6年(1931)45歳の時、智恵子に精神分裂の徴候があらわれ、翌年には未遂となったものの睡眠薬で自殺をはかった。

その後智恵子は、千葉県九十九里浜で転地療養し、南品川ゼームス坂病院に入院した。入院中、智恵子は見舞いに訪れる最愛の光太郎のためだけに製作した紙の切り絵千数百点を残し、光太郎の献身的な看護にもかかわらず、昭和13年(1938)10月、7年の錯乱の末肺結核で死去、52歳の生涯を閉じた。今際のきわに、智恵子は大好きなレモンを光太郎からもらうと一口かじり、かすかな笑みをこぽしながら息を引き取ったと云う。

死の3年後、光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集「智恵子抄」を刊行した。

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あれが阿多多羅山、

あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、

あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。

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