福島県二本松市成田町一丁目…大隣寺

震災前取材

 

慶応4年(1868)7月、二本松藩の主力は新政府軍を迎え撃つに須賀川に出陣していた。二本松にはわずかな留守部隊が残っているだけだったために、それを補うために六十歳以上の男子で結成された老人隊と、12歳から17歳の少年62名で少年隊が結成された。

板垣退助の率いる新政府軍の支隊は、棚倉、三春を攻略し奥州街道に入り本宮を押さえ二本松本隊の帰路を遮断した。藩主丹羽長国のもとには少年隊からは出陣嘆願が寄せられ、新政府軍が予想以上に早く二本松城下に迫っていることもあり、藩主はやむなく出陣を許可した。

出陣に先立ち、少年らは普段の稽古用の大小刀を新たな両刀に換えて初陣に臨んだ。しかし経済的に苦しい扶持取の家ではこの刀の調達にもずいぶん苦労したようで、上崎鉄蔵(16歳)の家庭では、戦闘用の刀はすでに父親が持ち出陣しており、鉄蔵の母は、我子の初陣を辱めぬように、実家の父に懇請し、相州物の名刀をどうにか間に合わせることができたと云う。

岡山篤次郎(13)は、戦死した時にその屍を探しやすいようにと、母に頼みその所持品すべてに記名してもらった。幼少のために字が下手で、敵にその字を見られ侮りを受けたくないという理由で母に頼んだという。

少年隊の内の25名は、木村銃太郎の指揮の下、大壇口で激戦を展開した。しかし衆寡敵せず多くの死傷者を出し退却した。

少年隊の隊長の木村銃太郎の首を、敵に渡さないために大隣寺に運んでいた岡山篤次郎(13歳)は、大隣寺門前で狙撃され腹部貫通の重傷を負った。土佐藩の隊長は、その勇敢さに感動し、何とかこの少年を生かそうとし、野戦病院に運び、看護の者に全力を傾注するよう命じたと云う。篤次郎は意識不明のままうわごとに「銃をよこせ」「残念だ」と繰り返しながら短い生涯を閉じた。その隊長は、篤次郎の最期まで決して屈しなかった魂にさらに感激を深くし、反感状(そりかんじょう)を少年の遺骸の枕元に残し、再び戦いに出て行ったと云う。

小沢幾弥(17歳)は、合戦で重傷を負い疲れ果て道端に倒れていた。隊長銃太郎の遺骸を埋葬するために素手で穴を掘ったので、爪は剥がれ、残る爪には泥が詰まっていた。そこへ政府軍の一隊が通りかかった。もう目も見えず、幾弥はその一隊に「敵か味方か」と問うた。その一隊の隊長は、哀れに思い「味方だ」と言った。重傷を負っている幾弥は、手振りで介錯を求め、その隊長は、もはや助からない重傷の幾弥をこれ以上苦しめるのは哀れと思い介錯したと云う。

成田才次郎(14歳)は、大壇口から傷つきながらもようやく二本松城の門前にたどり着いた。しかし敵兵は城の前まで押し寄せてきており、その中に馬上豊かに馬を打たせた白井小四郎が率いる一隊がやってきた。才次郎は、隊列が目前に来るまで充分にひきつけ、大刀をまっすぐに構え一気に先頭の白井に向って突進した。兵達は即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出ようとしたが、白井は子どもであることを見抜き「手を出すな」と命じ兵を下がらせた。白井は子どもである才次郎の剣をかわし、殺さずに捕らえようと思ったのだろう。しかし、才次郎の剣は思ったよりも鋭く、身体を捻って避けようとする白井の反応よりも早く、白井の胸部を突き刺した。白井はどうっと落馬し、「突き殺されるは我が不覚、このような勇敢な童に討たれて本望だ。その童を殺してはならぬ」と言ったと云うが、兵達が才次郎を捕えようとするが刀を振り回す才次郎に近づくことができず、ついに鉄砲で討たれた。

現在、この二本松藩主丹羽家の菩提寺の大隣寺の地には少年隊戦死者16人の墓がある。

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