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福島県二本松市成田町一丁目…大隣寺

震災前取材

 

丹羽氏の廟は、その菩提寺である大隣寺にある。

丹羽氏は武蔵七党の一つである児玉党の末裔とされるが、丹羽長秀以前の系譜ははっきりしていない。尾張守護斯波氏に仕え、後に守護代の織田氏に仕えた。

丹羽長秀は、天文19年(1550)から織田信長に仕えた。信長の尾張国統一のための戦いや、美濃斉藤氏との戦いなど多くの戦いに出陣し、信長が美濃に進出した頃には重臣の一人となっていた。その後も姉川合戦、長篠の合戦など多くの戦場で功を挙げ、また政治面でも業績を残した。特に安土城築城の普請奉行を務めたことは有名である。この当時は、柴田勝家に次いで家中で重きをなし、秀吉が柴田、丹羽から一字づつとって羽柴の姓を名乗ったとも云われている。

元亀2年(1571)、佐和山五万石を与えられ、その後若狭一国を与えられている。本能寺の変の時には大坂で四国平定の準備中で、本能寺の弔い合戦にはもっとも有利な位置にいたが、羽柴秀吉の迅速な行動に遅れをとった。秀吉とともに山崎合戦に参戦したが、その後の実権は秀吉が握った。

その後、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いの後は、越前と加賀にも領地を得て、百十二万石の大大名になった。しかしその後は秀吉とは距離を置くようになったと云い、その死は、織田家を簒奪した秀吉に怒り、その秀吉に騙されて片棒を担いだことを悔いての自害ともいう。

長秀没後は長重が跡を継いだが、家中に反秀吉の動きがあったことを理由に越前を没収され、さらに九州征伐の際にあったという軍律違反により若狭も没収され、領地はわずか加賀半国四万石になってしまった。これは、織田家の重臣の中で唯一命脈を保つ丹羽家の力を削ぐことが目的であったと云われている。しかし長重は秀吉によく仕え、慶長3年(1598)には加増され、加賀に十二万五千石を領するようになった。

関ヶ原の戦いでは、西軍に属し前田利長と交戦した。このため領地は全て没収され、長重は鳥羽で謹慎していたが、慶長8年(1603)、将軍徳川秀忠の取り成しもあり許され、常陸古渡に一万石を与えられた。その後、常陸江戸崎、陸奥棚倉と移り、棚倉城の築造を命じられた。

丹羽氏にはかなりの蓄財があったと云い、これは丹羽氏の財力を削ぐことが狙いだったと思われる。棚倉城は2年後に完成し城下も整えられた。寛永4年(1627)には陸奥白河十万石を与えられたが、ここでも築城を命じられ、江戸城修築、日光廟新造などの手伝い普請も命じられた。

寛永9年(1632)に白河小峰城が完成し城下町も整備され、寛永14年(1637)、長重は没し、その跡を光重が継いだ。しかし寛永20年(1643)二本松十万石に転封となり、ここでも二本松城の築城を命じられた。丹羽氏はすでに財政難に陥っており、長年の蓄財も底をつき、それでもようやく城を完成させ、城下町の建設、領内支配機構の整備などを行い藩政の基礎を固めた。

貧窮に瀕していた二本松藩では、他藩に先駆けて地方知行制を廃し俸禄制をとり、積極的に新田を開発した。その後は減移封もなく、そのまま明治に至った。