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福島県二本松市向原

震災前取材

この地は、木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊奮戦の地である。

二本松藩はその主力を須賀川方面においていたために城下の守備は手薄で、それを補うために六十歳以上の男子で結成された老人隊と、12歳から17歳の少年62名で結成された少年隊が新政府軍を迎え撃つことになった。

少年隊の内25名は、木村銃太郎を隊長として大壇口に布陣し三春方面からの新政府軍の侵攻に備えた。二本松少年隊隊長の木村銃太郎は、二本松藩の砲術師範であり、少年達は彼から砲術の指南を受け、少年達は銃太郎に厚い信頼を寄せていた。

午前9時頃、隊列を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一家少年隊の大砲が火を吹き戦いは始まった。新政府軍は散開し左右の山林に駆け入り射撃を始め、大砲の砲撃も始まった。政府軍の一隊が民家に隠れて激しい射撃を浴びせてきたため、少年隊は大砲をその民家に向けて砲撃、これが功を奏し、政府軍は四散し少年達はこれに力を得てドット鯨波の声を揚げたと云う。

激闘2時間ほど、少年達にも死傷者が出始め、互いの目は血走り、疲労で物云ふ事も意の如くならず、火薬にその顔面も墨で染めたようになり、弾丸除けの畳も今は敵弾の為に四分五裂して用をなさず、やむを得ず全身を露はして応戦に勉めた。

このような状況下で、二本松藩士の青山助之亟と山岡栄治は、政府軍の虚を突き、その隊列にたった2人の斬込みを敢行した。不意をつかれた政府軍はたちまち9人が斬り倒され、一時は全軍が後退するほどの混乱に陥ったが、ついに二人は壮絶な戦死を遂げた。

衆寡敵せず、隊長の銃太郎も二の腕に銃弾を受け、まわりを窺えばいつの間にか味方はすでに退却し、少年隊は孤立の危機に直面していた。銃太郎は退却を決意し、大砲の火門に釘を打ち込み使用不能にしたとき敵弾が銃太郎の腰を貫いた。

銃太郎の傷は重く、死を決した銃太郎は自ずからの首を切ることを命じ、しり込みする少年達にかわり副隊長の二階堂衛守がその首を落とした。少年達は泣きながら、棒や素手で土を掘り、銃太郎の遺骸を葬った。

退却に移ろうとしたとき、政府軍は間際まで迫り、一隊が脇の藪から突入してきた。少年たちは死を覚悟し即座に白刃戦の態勢に入った。しかし先頭きって突入してきた黒い獅子頭の隊長らしき人物は、少年たちの様子を見、両手を広げて後続の兵の突進をとどめ刀をおろし、「子どもだったのか、良く戦った。早く退きなされ」と言ったと云う。

二本松少年隊は多数の死傷者を出し、戦死者16名の墓は、藩主丹羽家の菩提寺である大隣寺にある。

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