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福島県会津若松市上荒久田字石尻

 

天子神社は、文治5年(1189)、日向高千穂より勧請したと伝えられる。その後、中世には葦名氏の庇護を受け栄えたとされるが、葦名氏の滅亡の時期に兵火に罹り、神器、古文書、社記等ことごとく灰燼に帰した。

その後、天正18年(1590)、会津にはキリシタン大名の蒲生氏郷が入国し、城下町を形成し、産業の振興など民生の安定に尽力した。また、城下三ヶ所に天主堂を建てたとされ、その内の一つが、この地だったと伝えられる。

その後蒲生氏はこの地を去り、寛永20年(1643)、保科正之が会津に移封された。そのとき従って来た家老の太田小太夫実次は、敬虔なキリシタンだったが、当時幕府は厳しくキリシタンを取り締まっており、保科正之はこれを憚り、太田実次を谷野又右衛門を改姓させ、この城北荒久田の地に六町四方を与え帰農させた。その後、幕府のキリシタンの探索は益々厳しくなったため、正之は実次をさらに千咲原に移住させたと云う。

その後、明治以降、天子神社はこの地の村社となり、太平洋戦争後は、天照大御神を祀る天子神社として、キリシタンの伝説を伝えながら今日に至る。