福島県桑折町万正寺字下万正寺

 

伊達氏初代の伊達朝宗の墓は、桑折町の住宅地の一画にひっそりと建つ。

伊達氏初代の朝宗は、平安時代末期の武将で、藤原山蔭流の待賢門院非蔵人藤原光隆の息子の藤原朝宗に比定されている。母は頼朝の伯母の六条判官源為義の女と言う。

若い頃には都に上り高松女院に仕えたこともあり、都で官を得る一方、常陸国伊佐郡の庄司として常陸に勢力を張る在地豪族でもあった。娘には源頼朝の側室の大進局(僧貞暁の母)として知られた女性がいる。

治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した際には、母方の従兄弟という関係もあってその麾下に馳せ参じた。

文治5年(1189)の奥州合戦に際しては、出家して念西と称していた朝宗は、四人の子息とともに前衛として出陣、平泉方の最前線基地である信夫郡の石那坂の城砦を攻略し、信夫庄司で飯坂大鳥城主の佐藤基治を生け捕りにした。

この功により、激戦地阿津賀志山がある陸奥国伊達郡を賜り、次男の宗村と共に伊達郡に下向し、これを契機に、それまでの伊佐、あるいは中村の姓を改称し伊達を称したという。朝宗の後は次男宗村が相続し、その後裔は伊達氏として存続、南奥羽を席巻した。

文政4年(1821)、伊達家は墓前に五輪の石塔を建立し朝宗を供養した。江戸時代には参勤交代の途次、仙台藩主はここに墓参するのを例としていた。

なお、初代朝宗は次男とされる宗村と同一人物とする説などもあり、詳細については定かではない部分もある。

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