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福島県桑折町万正寺字本丸

 

文治5年(1189)の奥州合戦での功によって、伊達郡を与えられた常陸入道念西が築城したと伝えられる。また応永年間(1400頃)に九代伊達政宗が鎌倉公方に背いて立て籠もった赤舘もこの西山城と云われている。

西から張り出した山の尾根の東端部に西山城は築かれた。比高は約100mあり、東西に長い山全体に渡り、城域は東西1000m、南北500mの広さに及ぶ。この山は西側以外の三方は急峻であり、かなりの要害性を持つ、また山上部は平坦であり郭は非常に広い。西山城は、東側から高舘、中舘、西舘といわれる3つの郭を中心とした数カ所の郭によって構成されている。城の北面から東面へ流れる産ヶ沢川は天然の堀となり、城から川にかけては急崖となっており、まさに天然の要害である。比較的緩やかな傾斜となっている南側には家臣の屋敷地があった場所と思われ、現在は観音寺という伊達氏ゆかりの寺が残っている。また、西舘の南には枡形虎口、周囲には石塁が残されている。

天文元年(1532)、伊達稙宗はその本居城を伊達市の梁川城から、桑折の西山城に移した。現在の西山城の遺構は主にこの時のものであると思われる。稙宗はそれに先立って陸奥国守護に任じられており、西山城は文字通り陸奥国守護の府城となった。天文5年(1536)この地で分国法「塵芥集」も制定されている。

伊達稙宗は三男実元を越後上杉氏へ入嗣させようとする。このとき、越後の不安定な情勢から、稙宗は伊達の家臣から選りすぐりの100名を実元につけることとした。しかしこれに反対する重臣の桑折景長と中野宗時が、「伊達家中は蝉の抜け殻となる」として晴宗に訴え、晴宗は稙宗が鷹狩を終えた帰りの道で拘束し、この城に幽閉した。

これに対し、女婿の相馬顕胤と懸田俊宗がただちに動き、稙宗の家臣小梁川宗朝が桑折西山城から稙宗を救出した。その後、稙宗方には相馬顕胤、懸田俊宗、蘆名盛氏、二階堂輝行、田村隆顕、大崎義宣、葛西晴胤らが付き、晴宗方には、ほとんどの有力伊達家臣や岩城重隆が付き、稙宗方と晴宗方に分かれ、縁戚関係の南奥州の諸大名も巻き込んだ大乱に発展した。これを「天文の乱」と呼ぶ。

この乱は約7年間続き、この間、西山城では何度も両軍の攻防戦が展開された。始めは稙宗方が優勢であり西山城を奪回したが、家臣団の支持を受けた晴宗方が次第に盛り返し、蘆名盛氏、最上義守らも晴宗を支持するようになった。結局、天文17年(1548)、将軍足利義輝の命により調停が行なわれ、晴宗が伊達氏家督を継ぎ、稙宗が丸森城に隠居し、晴宗は居城を米沢城に移し桑折西山城は破却された。

延宝8年(1680)、本多忠国は福島十五万石を与えられこの地に入った。福島城が手狭であったため、ここを拡張して居城にしようと川村瑞賢を招き、築城を開始するが、わずか2年後に転封され築城は中止された。

その後戊辰戦争の際に、奥羽列藩同盟軍がこの城跡に陣を敷き、砲台場が置かれた。