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福島県楢葉町山田岡字山舘

 

別名:山田岡城、木戸城

楢葉町のジェィ-ヴィレッジの北側の台地一帯が楢葉城の跡である。比高は凡そ20mで、城域の北西 部に主郭が置かれ、主郭の東側には虎口が設けられ、重厚な土塁がめぐらされている。その南に二の郭が、さらにその東に三の郭が配されている。西側は急傾斜で、東側は緩斜面になっており、主郭の東側には、数段の腰郭が配され、さらに空堀、水堀があったと思われる。また三の郭の東側にも水堀が配され、その外側にも郭が置かれその城域は広大だ。

楢葉城を築いたのは平安時代末期にこの地方に来た楢葉氏であったという。その後の文明年間(1469~87)、楢葉氏は岩城氏によって滅ぼされ、以後楢葉城は岩城氏の城となり、岩城氏の重臣の猪狩氏がこの城に入った。

同じ頃、北の相馬氏は標葉氏を滅ぼし、この地域は岩城氏と相馬氏とが境を接する地となり、現在残る遺構の多くは、相馬氏に対峙するため、岩城氏、猪狩氏によって改修されたものと考えられる。

天文3年(1534)、岩城氏と相馬氏は、岩城重隆の娘の久保姫の婚約を巡り争乱となり、相馬顕胤は岩城領の四倉まで侵攻した。その後和議により、広野から四倉にかけての土地は岩城氏に返還されたが、富岡、楢葉は相馬領となった。しかし元亀元年(1570)には、岩城氏が相馬氏から富岡城、楢葉城を奪回し、猪狩氏が再度楢葉城主として復帰した。

その後岩城氏は、大勢力の伊達氏と佐竹氏の間で揺れ動き、豊臣秀吉の奥州仕置でも命脈を保ったが、関が原合戦後、岩城氏は改易され、猪狩氏も運命を共にしたと思われ、このとき廃城になったと考えられる。