福島県広野町上北迫字二ツ沼

 

この二ツ沼の地は、万葉集に

沼二つ 通は鳥が巣 あが心 二行くなもと なよ思はりそね
と詠まれた地と伝えられ、現在歌碑が建てられている。

また、天明6年(1786)に沼の洲に弁財天が祀られ、雨乞いの祈願が行われていた。この二ツ沼は弁天沼とも呼ばれ、また沼の東を通る坂は弁天坂とも呼ばれていた。戊辰戦争の際にはこの二ツ沼を中心とした地で激戦が行われ、新政府軍は「弁天坂の戦い」と呼び、同盟軍側は「広野の戦い」と呼んでいる。

慶応4年(1868)6月16日、新政府軍は北茨城の平潟に上陸し、7月13日には仙台藩、米沢藩、相馬中村藩、平藩、の兵士ら奥羽列藩同盟が守る平城を落とした。同盟軍はいわき市北部の四ツ倉に退き、さらにこの広野の二ツ沼まで退き、この地で新政府軍を迎え撃つべく塹壕を掘り砲台を設けた。

新政府軍は、7月22日には広島藩兵と鳥取藩兵を中心とした部隊がこの地より6kmほど南の末続村に進出した。相馬中村藩兵はこれに夜襲をかけ、混乱した新政府軍は3kmほど南に後退した。しかし7月23日には体勢を整え、3km南側の浅見川まで進出、対岸に待ち受けていた同盟軍と交戦になった。

このとき同盟軍は、仙台藩と相馬中村藩の他に彰義隊の残存部隊が参加、川を利用した陣地で新政府軍の前進を阻んだ。日没になっても決着はつかず、戦闘は夜間も継続し、翌24日の午前8時ころ同盟軍が後退し始めた。

ようやく新政府軍は浅見川を越えたが、同盟軍は26日新政府軍に対し猛攻をかけた。広島藩と鳥取藩の新政府軍は持ちこたえるのが精一杯で、陣地にこもりひたすら救援を待った。正午頃、長州藩と岩国藩の増援部隊が到着、新政府軍はただちに反撃に移った。長州藩と岩国藩の増援部隊は陣地を飛び出し同盟軍の陣地を強襲し、広島藩と鳥取藩もこれに続いた。

この勢いに同盟軍は押され、形成は逆転、恐慌状態になり二ツ沼の陣まで退いたが混乱は収まらず、立て直そうとした仙台藩参謀中村権十郎が戦死、奮闘した伊達藤五郎は負傷、相馬中村藩の鬼将監こと相馬将監胤眞も戦死した。

同盟軍はこれらの報に絶望を煽られ、天然の要衝北繁岡も棄て、富岡をも通りこし、熊町に到達しようやく足を止めた。

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