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福島県広野町上浅見川

 

高倉山城は、標高122mの円錐形の独立丘陵全域を城域とした山城。

頂上に現在は展望台が置かれているが、狭く当時も見張り台の役割であったと思われる。北に張り出した尾根に比較的大きな平場が見られ、こちらが城としての機能の中心部だったと思われる。また、東の山麓、南東の山麓部に多くの曲輪跡が見られ、居館部と詰の城を置く根小屋式の山城と考えられる。

堀切や竪堀などの空掘、土塁や礫塁など、防御施設も至る所に見られ、字大平の丘陵部には馬場があると云う。高倉山の西側は、浅見川に向う自然の谷が入り込み、所々に断崖があり傾斜が急で、「西の沢」には堀切りが掘られ、本城を隔絶していた。また、南麓は湿地に守られ、平時は水田として戦時は堀として使われる防御線「沼田」として地名を残している。

高倉山城は、岩城氏の重臣猪狩氏によって16世紀に築かれたとされるが詳細は定かではない。天文3年(1534)岩城氏の領主重隆の娘の久保姫の婚約を巡り、岩城氏と相馬氏は敵対した。重隆は、当初は白河結城氏と同盟関係を結び、伊達稙宗の縁戚にあたる近隣の相馬氏や田村氏と対抗しようとした。このため久保姫の嫁ぎ先をめぐって伊達氏や相馬氏と対立し、軍事的な争いにまで発展した。

相馬氏は富岡城、楢葉城、広野や久ノ浜、四倉を攻略した。劣勢の岩城氏は、久保姫を伊達氏の嫡男晴宗に嫁がすことを条件に、相馬氏と和睦し、広野、久ノ浜、四倉は岩城領に返還されたが、富岡、楢葉は相馬領となった。

楢葉を治めていた猪狩氏は、相馬氏との新しい国境である広野に移り、相馬の進攻を防ぐ最前線基地としてこの高倉山城を築いたものと思われる。36年後の元亀元年(1570)に、岩城氏は富岡城、楢葉城を奪回し、猪狩氏は再び楢葉城主に返り咲いた。

しかし慶長7年(1602)、佐竹氏に近かった岩城氏は、佐竹氏とともに上杉討伐に参加せず、徳川家康に領地を没収され、このとき高倉城も廃城となった。