スポンサーリンク

福島県広野町

 

この地には、海から昇る朝日を背にした美しさなどから、「尾上の松」「高砂の松」と並ぶ日本三大名松にも数えられた「奥州日の出松」があった。しかし平成16年(2004)、海岸浸食による塩害や、松食い虫の発生により枝折れや幹の壊死が進み、台風により根元から倒木した。現在は木の根株と石標柱、伝説にちなむ祠が残る。

この松にちなんでは、多くの伝説が伝えられる。

昔、この地にお松という16歳の美しい娘がいた。あるとき、江戸での参勤を終えて帰る途中の殿様がこの辺りで休み、そのとき給仕に出たお松を見初め、侍女として城へ連れ帰ろうとしたが、お松はそれになかなか従おうとしなかった。これに怒った殿様は、お松を船に乗せて龍神ヶ淵に流してしまった。

流されたお松は、父母会いたさの一念から海を泳いで帰ろうと海に飛び込み、やっとのことで海岸まで着いたが、力尽き息絶えてしまった。その姿は女面蛇体の哀れな姿になっていたと云う。両親はこれを嘆き、手厚く葬り、その側に娘の名に因んで松を植えた。それが「奥州日の出松」と呼ばれるようになったと云う。

 

またこの地は、岩城氏の領内でもあったためか、岩城氏に関わる安寿と厨子王伝説も多く残る。

・その一

白河天皇の御世の永保3年(1083)のころ、この地に生まれた小笹は、一児の母として平穏に暮らしていたが、若くして夫と子を一度に失い悲嘆に暮れていた。折りしも世話する人があり、陸奥の太守岩城判官政氏の子の安寿姫と厨子王の乳母となった。

その後、政氏は讒言にあい筑紫に流されてしまった。父を思う妻と子は政氏の無実の罪をはらさんと、小笹を連れて京の都に向かったが、途中直江津の港で山椒太夫の手下によりつかまり売り飛ばされ、母と子は引き離されてしまった。佐渡に売られた小笹は途中越後の海に身を投げて果てた。

ある日のこと、この村は一天にわかに掻き曇り激しい雨が降り注ぎ、暗黒の空を稲妻のように飛来するものがあった。それは一匹の五色の大蛇で、海岸の大きな松に巻きついた。これを不吉と思った村人がこの松を切ると血が流れ出したという。村人たちは、これは小笹の霊が大蛇と化して戻ってきたのだと噂しあい、その霊を慰めるために祠をつくり姥嶽権現として祀ったと云う。人々は「血の出松」と呼ぶようになったが、のちに「日の出松」と呼ばれるようになったと云う。

・その二

直江津で子等と離ればなれになってしまった奥方はなんとか悪人の手を逃れ、この地までたどりついたが、この地で亡くなった。娘の安寿姫も山椒太夫のもとを逃れ、ようようにしてこの地までたどり着いたが力尽き倒れてしまった。これを哀れんだ村人たちが、二人の亡骸を埋めたところに植えたのが、この松だとも伝えられる。