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福島県大熊町熊町

 

熊川は陸前浜街道の宿場町であった。このルートは律令時代の東海道(あずまかいどう)でもあり、古くから利用されていたが、江戸期の参勤交代では相馬藩などに限定され、また物流も、太平洋沿岸に東廻り航路が成立していたため、街道沿いの陸路の物流より海路の方が効率的だったこともあり、他の主要街道に比べて整備が進まなかった。

しかし、戊辰戦争の際には、新政府軍の主な進撃路となり、官軍は北茨城の平潟に上陸し、いわきの平城を落とした後は、この街道を怒涛のごとく進撃した。

大熊町の北側の野上には、相馬藩の兵が入り守っていた。新政府軍は大熊町南側のこの地を朝早く出て野上に向かった。旧街道は、現在の熊町郵便局の近くから東に折れ、そこから北に向かい熊川を渡り野上に向かう。官軍はこの熊川を渡り野上に向かった。

この途中に農家があり、そこに「ナカ」という若い嫁がいた。慶応4年(1868)の7月28日、ナカは誕生すぎたばかりの赤子を遊ばせながらアンをつくっていた。なべを下し、外の仕事をしているうちに、赤子はアンのなべで転んでしまった。子どもの泣き声にびっくりしたナカは急ぎ着物をぬがせ、水で洗ってやったが、赤子のやわらかい肌はむけてしまった。ナカは必死に手当てをしたが、赤子は泣きやまなかった。

ちょうどそんな折に、鬼のような官軍がやって来るといううわさが伝わり、人々は荷物をまとめて後の山へかくれることになった。夫はナカと赤子を村人とともに山に連れて行こうとしたが、ナカは、みんなに迷惑をかけるからと泣き止まぬ赤子とともに残ることになった。

ナカは一睡もしないで子どもの手当てをしていたが、翌日の29日朝、鉄砲の音が聞こえ始めた。鉄砲の音が近づき、ナカは阿弥陀様が守ってくれるに違いないと一心に念仏を唱えた。官軍は熊川を渡り、後ろの道をドタドタと足音を立てながら通っていった。その内の2・3人が井戸で水を飲み、そのうちの一人がナカを見つけて声をかけてきた。

なぜ逃げないのかというので、子供が大やけどをしたことを恐る恐る告げると、兵士は子供を看るために残ったナカをほめ、そしてナカの家の仏壇を見て、「お前の家は一向宗か。おれもそうだ。拝ませてくれ」と言う。そしてよごれた両手を合わせ、念仏をくりかえした。

そして「もう兵隊もみんな行ったから心配するな。子どもを大事にして、元気でな」と駆け去った。ナカは涙が出てとまらなかった。官軍は鬼だといわれていたが、阿弥陀様のような者もいたのだ。ナカは後で知ったことだが、その兵士は広島の安芸の兵士で、広島は安芸門徒といって非常に信心深い者たちが多いということだった。