福島県新地町谷地小屋字館前

 

別名:蓑首城

相馬周辺の宇多郡は、建武2年(0335)後醍醐天皇から白河の結城宗弘に与えられた。宗弘は相馬黒木に本城を構え、宇多郡全域を支配した。この時期に新地城に結城氏の家臣の黒木氏が入ったと思われる。

南朝方の結城氏に対して、隣接する行方郡は北朝方の相馬氏が支配した。南北朝の争いは北朝側の有利に推移したが、結城氏による宇多郡の実質的な支配は15世紀まで続いた。

天文13年(1544)に伊達に天文の乱が起き、相馬顕胤は黒木弾正信房を討ち、城代の黒木清定は丸森城に逃れ、宇多郡は相馬氏の支配下になった。相馬氏はさらに伊達領の伊具郡に侵攻し、伊達氏との争いが激化、伊達勢に備えて新地城を修築し蓑首城と名を改めた。

天正17年(1589)、伊達政宗は宇多郡に侵攻し、駒ヶ峯城を攻略し、蓑首城も攻略した。蓑首城には亘理重宗が入り宇多郡北部は伊達領となった。これに対して相馬義胤は七月に亘理郡の鳥の海(宮城県亘理町)と坂元(宮城県山元町)に於いて伊達勢と戦うも劣勢を挽回することは出来なかった。

天正18年(1590)、宇多郡大沢(相馬郡新地町)に於いて相馬は伊達勢と合戦し蓑首城を攻撃するも敗北し、駒ヶ峯城を攻撃するため塚部の小豆畑に於いて黒木宗元、亘理重宗の伊達勢と合戦するがこれも敗北した。

度重なる敗戦により家中は和戦二つの意見に分かれた。中村城に隠居していた盛胤は小高城に義胤を訪ね、家名を全うするためには伊達氏への服属もやむなしとの意見を述べたが、義胤は伊達政宗の旗下となって家名を汚すよりは徹底抗戦して滅亡すべきであると主張し、盛胤も最終的にはこれに同意した。

しかし、幸運なことに豊臣秀吉の小田原城攻めにより、伊達政宗も小田原に参陣し、豊臣の総無事令に従うしかなく、相馬氏は滅亡の危機を脱することとなる。

政宗は亘理重宗にこれらの城を与え、重宗は初め坂本三河、次いで慶長初期には大町三河を城代とした。慶長5年(1600)に坂元への引き上げが命じら れ、その後廃城となったとされる。

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